高麗郡の養蚕の歴史は古い。奈良時代初期に大陸の先進文化を伝えた、高句麗から渡来した人びととともに古いのであろうが、記録に残るのは南北朝時代からである。高麗郡に高麗彦四郎経澄(つねづみ)という北朝方の武将がいた。彼は高麗郡内に北方地頭職(しき)を与えられていた。貞治(じようじ)二年(一三六三)四月二五日、六月二五日と翌三年九月一八日の三回にわたって、室町(足利)将軍義詮(よしあきら)から御教書(みきょうじょ)(※註1)を賜わった。その内容は、高麗郡笠縁(かさぶち)(※註2)は年貢として絹を代金納することになっているが、未進(怠納)だから結解(けちげ)(報告書)を出せという趣旨である。その一例を挙げると、
室町将軍家御教書
武蔵国高麗郡笠縁北方郡分の〓絹(せんけん)代(※註3)は、長井庄定使(じょうずかい)森三郎の給物として、切下ぐる所なり。切符(※註4)の旨に任せて、不日沙汰致すべし。残る所に於ては直納せらるべきの状、仰せによって件の如し。(原文は漢文)
貞治三年九月十八日
沙弥(しやみ)(※註5)(斯波高経(しばたかつね))(※註6)(花押)
高麗彦四郎入道殿
(町田文書)
〔註〕
(1) 室町幕府の公文書である。幕府の執事が、将軍の仰せを奉じて(執達)するという形式をとる。
(2) 川越市笠幡(かさはた)をさすのが通説である。
(3) 〓は〝とどこおる〟であるから、怠納している絹の代金のことか。
(4) 割符(さいふ)と同じ。中世の為替手形のこと。鎌倉時代、日宋貿易の結果大量に宋銭が輸入され、全国に流通するようになった。そうすると、遠隔地に対する支払方法として為替(かわせ)制度が始まった。交通・運輸が不安・不便な時代に、重い銭貨を運ぶのは大変なことなので、割符という為替手形を業者に作らせ、それを相手に送った。この業者を割符屋といい、割符のことを切符ともいった。
(5) 出家して未だ正式の僧になっていない男子。
(6) 南北朝時代の武将で、足利幕府の実力者。子の義将を推挙して執事とし、自分は後見として政務をとった。
この御教書のなかで、笠幡北方で絹の代金納を怠納したという記事は、鶴ケ島町内の旧各村々がこの時代にはすでに絹を生産していたことを示すものであろう。
近世には、ほとんどの各村々で養蚕が行われるようになった。
しかし徳川幕府は、封建主義経済を維持するため、民衆の日常生活のあらゆる方面に統制と拘束を加えた。衣・食・住のうち衣も例外ではなかった。
最初の衣服制限は寛永五年(一六二八)に発令された。
百姓の着物のこと、百姓分の者は布(麻)・木綿たるべし。ただし、名主その他百姓の女房は紬(つむぎ)の着物までは苦しからず。その上の衣裳を着候者は曲事(くせごと)(けしからぬ)たるべきものなり。(「徳川禁令考」)
この禁令は寛永一九年にはやや緩和された。
庄屋は妻子とも、絹・紬・布・木綿、脇百姓は布・木綿ばかりこれを着るべし。このほかは、えり・帯にも仕(つかまつ)るまじきこと。(同書)
幕府は絹の使用を禁止しただけでなく、桑の本田畠へ作付けすることも禁止した。元禄三年(一六九〇)の検地条例によれば、
畑の廻りに漆・桑・楮(こうぞ)・茶の木などを植えてあって、従来〝高〟につけられていた所は、見計らって畑歩からはずすこと(「元禄検地条目」)
幕末の元治元年(一八六四)には、
近年、田方へ桑植え付け候もの多くこれあるやに聞く。以てのほかのことに候。五穀を廃し蚕を専(もつぱら)に致し候ては然るべからず候。間地(空地(あきち))へ植え付け候は当然の儀に候えども、田方はもちろん、畑方等へ新規(しんき)に植え付け候は、決して相成らず候。右の通り、御料・私領・寺社領ともに漏れざるよう相触れらるべく候(「徳川禁令考」)
この厳重な御触は、反面に本田畑が全面的に桑園化することの激しかったことを示唆するものであろう。
古島敏雄氏によると、江戸時代中期迄の桑栽培法の中心は、屋敷の周囲に数本植え、或は農道の端に並木状に植えるのであって、専門の桑畑はほとんどなかった(『日本農業技術史』)。
しかし、養蚕の早くから盛んな上州地方では、
桑畑は一筆の畑地を数多に区画し、その区の境界に桑樹を植えつけ、中間には普通の農作物を栽培せり。次いで安政年間に至り、全畑に桑樹を栽植する園地を見るに至れり。(「群馬県蚕糸業沿革調査書」)
といった状態にあった。
この桑の栽植法は、初めのうちは田畑の畦畔(けいはん)(あぜ)に植えることが許されたのを利用して、畑の区分を小さくし、畔(あぜ)を多くした苦肉の策であったのであろう。