近世鶴ケ島の養蚕

681 ~ 682
当時の鶴ケ島町の養蚕状況はどうであったのだろうか。詳しくはわからぬが「村明細帳」の記載によると、「女は蚕少々仕り候」と上申しているのは中新田村、下新田村、高倉村である。脚折村は「蚕少々仕り候。尤(もつとも)、手前入用斗(ばか)りに御座候。」と恐縮しながら書いているのは、次の「当村勝れて困窮の村方に御座候」と困窮を強調したり、「耕作大切に仕り候」と本田畑の五穀生産に怠りないことを訴えたりするのと同一歩調をそろえているのであろう。
 当地方での養蚕状況については、資料乏しく精確な記述はできないが、流通面から見てみよう。呉服問屋が関東絹・秩父絹・上州絹などとよんでいる平絹(ひらぎぬ)は、養蚕・製糸・製織を一貫して行う農家の副業として生産されたもので、一八世紀中葉には、上州、武州の広汎な地域から織出されていた、天明初期には上州二〇、武州一六の市(いち)で、絹や太織が取引されていた。(林玲子「近世中後期の商業」)
 当地方では飯能・越生(おごせ)・坂戸・松山・小川で市が立ち、武州絹とよばれる絹と、太織が主として集められた。いずれも一〇、〇〇〇疋以上の絹織物が取引されていた(図―23参照)。そのうちでも飯能市(いち)は、古くから縄市として知られていたが、天明期には年間絹八、〇〇〇疋・太織(ふとおり)三、〇〇〇疋を集めて、絹市としての性格を強くしていた。

図5-23 天明初期(1781~85)の関東絹市
林玲子「近世中後期の商業」より

 このように周囲に張り廻らされた市場圏のなかで、農家の副業が自家用生産だけに限定されていたのであろうか。
 ことに関東の場合、領主による流通統制はほとんどみられなかったという(同書)。江戸に近い上州・武州には大藩がおかれなかった上に、旗本領・代官領が入りまじっており、しかも各地に多数の市が開かれているために、一領主による流通統制は事実上不可能であったからである。
 
 養蚕が飛躍的に発展したのは、安政六年(一八五九)の開港以後である。生糸と蚕種は一躍、輸出品中の最重要品目となった。同年には生糸を四八万斤を輸出し、文久元年(一八六一)以後は年々百万斤を越えた。その結果、それ以後のわが国の養蚕は輸出生糸を中心として発展し、旺盛な海外需要と、有利な価格に刺激されて、養蚕の分布はたちまち全国に拡大し、明治以後の大発展を遂げる基礎をつくった。