茶はヒマラヤ周辺か、あるいはアジア南部が原産地であり、中国を経て、平安初期に日本に渡来したと伝えられる。また一説には、縄文時代すでに焼畑農業と結びついて渡来したのだともいう。
狭山茶の場合には、茶園経営の歴史は中世までは遡(さかのぼ)ることができる。室町時代の作といわれる「庭訓往来(ていきんおうらい)」に、茶の産地として栂尾(とがのお)・仁和寺(にんなじ)・醍醐(だいご)・宇治・葉室(はむろ)・般若寺(はんにゃじ)・神尾寺とともに、日本五場といわれる大和宝尾・伊賀八島・伊勢河居・駿河清見(きよみ)・武蔵河越茶の名が挙げられ「皆これ天下の指して言う所なり。」と結んでいる。
この河越茶の産地については該当地不明だが、おそらく広く河越庄を指しておるのであり、今日の狭山地方だけではなかったらしい。
その後、戦国混乱期になると、茶園は荒廃し、潰滅状態になったようである。
この河越茶の復興は江戸時代後期に入ってからである。この時代になると、泰平が打ちつづき、農民的剰余も成立し、それをもとにして引き起こされた庶民経済の向上と、それを足場にした江戸庶民の華が開いた。当時の流行語によると、「世上流行」するのは、生花の稽古、婦女のゆび輪、男の日傘、長い羽織、に次いで「俗人の茶の湯」という風雅さである。そういうわけで、茶の需要も増大し、その効用も知られるようになった。この時代の茶は、金子郷・宮寺郷(共に入間市)などで畦畔(けいはん)(あぜ)、山合いなどに残存する茶樹で製茶したという。それを畦畔茶とよばれる。製茶の技術については先進地宇治の製茶法を学んだ。
こうして、狭山茶は発展の一途を進んだが、安政の開港後、貿易の振興と相まって、狭山茶も輪出されるようになった。しかも、生糸とならび茶は輸出品の双璧であった。