2 近代の狭山茶の推移

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 埼玉県の茶園面積・荒茶(あらちゃ)生産量の推移については図―25の通りである。

図5-25 埼玉県茶業の推移(茶園面積及び生産量)
『狭山茶業史』等から作成

 この図から、近代狭山茶業史を六期に分けて、それぞれの状況を考察する。
 第一期は、わが国とアメリカ合衆国との貿易上の諸関係に起因する初期安定期である。
 茶は主として横浜港から輸出されたため、宇治や静岡産に比べて、立地条件としては優位にあった。明治四年にスエズ運河が全通すると、ヨーロッパ航路は距離を半減することになり、更に同年アメリカ大陸横断鉄道が開通すると、太平洋航路で直接アメリカ東海岸に輸出することが可能となった。このように情勢好転のうちに、日本茶の輸出は伸び、明治元年の輸出額一、三五〇万ポンドが、四年には一、八〇〇万ポンドに躍進し、つづいて五年には一、九〇〇万、一〇年には二、七〇〇万、一三年には四、〇〇〇万ポンドと、驚異的な数字を記録するに至った。(『狭山茶業史』)
 狭山茶は輸出に際しては、原地の問屋が荒茶を集荷し、八王子経由で横浜在住の茶商の手に入り、更に加工されて製品となっていた。それで、一名八茶とよばれて、すこぶる好評であった。しかし声価の高まるにつれて、他地方産出の粗悪茶を混入する茶商もあり、また生産者のなかにも粗悪な茶を出荷するものもあった。甚しきに至っては、柿や柳の葉を混入したり、人工的な着色を施すものもあった。「お茶師・香具師(やし)・護摩(ごま)の灰」という悪評はそのために生れた流行語であった。明治一五、六年頃より、この粗製濫造がアメリカで不評となり、「贋製(がんせい)茶輸入禁制条例」が公布され、茶価は一転下落した。こうして始まった混迷期は明治時代いっぱい続いた。
 このような不良茶が横行するなかでも、栽培法の研究、製茶法の改善、商道の昂揚が進められた。明治一七年、悪徳業者の一掃を計って、県内各地に茶業組合が結成された。明治二四年、製茶伝習所が開設され、製茶技術の向上が計られた。しかし当時、物価は高騰するにもかかわらず、茶価はなお低迷をつづけていた。そのとき、日高町平沢出身の高林謙三は、その危機を突破するため諸種の製茶機械を発明し、生産費を低減することに成功した。しかし、この機械は一般に普及するには至らず、明治年間は大体において、一部の半機械製を除いて、手揉(てもみ)茶であった。
 そのうちに、狭山茶に悪条件が重なってきた。それは①滋賀・静岡産茶の声価が上昇してきた。②最大の輸出先アメリカ人の嗜好が緑茶からコーヒーへと移行した。③アメリカの絹の需要が増大し、農家が茶樹を伐採して桑園に転換した、などである。
 大正時代に入ると、官民の努力漸く実り、茶の生産量も持ち直すようになり、相対的安定期(第三期)となった。しかし、茶園面積の減少は相変らず進行した。その多くは桑園に変っていった。それにもかかわらず、生産量に減少のみられないのは、製茶技術の向上と、製茶機械の導入が漸く埼玉県にも始まったことによるのである。この機械導入は、昭和恐慌といわれる昭和五年の大不況と相まって、共同製茶所の設置を促進した。
 昭和一九年から二四年までの第四期は、第二次世界大戦の戦中、終戦直後の時代である。戦中の人手不足と、戦後数年におよぶ食糧事情の悪化は、嗜好品としての茶の生産にとって大きな障害であった。この時期には狭山茶の生産は、茶園経営・製茶業ともに壊滅的な打撃を受けた。
 こうした戦中・戦後の荒廃した茶園の経営も漸く立直ることができた。茶は連合軍の援助のもとに、アメリカ向け輸出商品として計画が立てられ、食糧その他おびただしい輸入品の見返り商品として、他の商品に先がけて、輸出されることになったからである。また埼玉県でも〝狭山茶増産五か年計画〟が樹立され、茶園の増反、製茶の増産、輸出の増進が計られた。機構上の改編も進み、昭和二五年には生産者・茶商工業者が一体となって〝埼玉県茶業協会〟が誕生した。茶園面積も大正元年をピークとして、その後は減少しつづけ、桑園化が著しかったのが、ここに至って、逆に増加の一途をたどり、それとともに茶の生産量も急増した。これが成長期(第五期)である。
 このような傾向も、昭和四六年を境として鎮静化し、それ以降は安定期(第六期)に入ったと考えられる。
 おおむね、首都六〇キロメートル圏の内外に位置するという狭山茶生産地の立地条件は、第二次・第三次産業の急速な発展と、人口の社会増を招いたが、これにより、茶摘みと製茶にかかわる労働力の減少と、茶園の宅地化が進行した。だがその一方で、都市化の進展のなかでも、伝統的な地場産業として定着した狭山茶は、全国的にも声価を高め、昭和六〇年現在、県別栽培面積で全国第四位を占めるに至っている。ただし、生産量に関しては、前年の雪害の影響で、上位にはランクされていない。
 しかし狭山茶の伝統は、量よりも質を重視する傾向があり、その特色は妙香、甘味の「味の狭山茶」である。茶摘唄にも「姿わるくも色香は深い、狭山銘茶の味の良さ」を誇りとして、生産に励んでいるのである。
 その販路は東日本を中心として、鞏固な顧客層を抱えている。その地方別と販売比率は次の通りである。
 上信地方(長野・群馬・北越)…二割
 東北・北海道方面…三割
 東京・横浜方面……五割