鶴ケ島町は、前述の通り、狭山茶生産地三一か市町村の最北端に位置している。しかし、地質的には狭山地方の延長である。『埼玉大百科事典』によれば、「狭山地方とは狭山丘陵を中心に、北方の加治丘陵およびそれにつづく台地南麓の村々のことである。この地域は、薄い関東ローム層の下に、武蔵野礫層が広く分布し、これが茶樹の生育に好条件を与えて、茶の栽培適地を形成し、西の宇治茶とならぶ良い生葉(なまば)を生むもとになった。」ということである。それでは鶴ケ島の地質はどうか。柴崎達雄氏によると「坂戸・鶴ケ島台地の下流側半分は、むしろ古い入間扇状地の原型を残しており、その上に武蔵野破礫層に相当する高麗川扇状地堆積物が薄くおおっていると考えてよい。」(本書第一編「鶴ケ島の自然」)
そうすると、鶴ケ島も狭山地方と同様な地質であり、茶樹の生育には好条件を備えているといわねばならぬ。鶴ケ島製茶の過去の栄光も好適な立地条件に恵まれたのである。しかし、これだけ良質の茶を生産するには、先人の努力によることも多い。
鶴ケ島茶製造の歴史を尋ねてみると、
田中萬次郎が記述した第二回製茶共進会に提出した「製茶出品申込書」には、明治一六年には田中家の茶園は六反五畝壱歩で、そのうち一反歩は畑の周囲の畦畔(けいはん)茶園であり、五〇年以上の歴史をもち、二反一歩は文久元年(一八六一)に蒔き付けた茶園で、三反五畝歩は元治元年(一八六四)に蒔き付けた茶園である、と記してある。このことから、脚折村では幕末にすでにかなりの規模で茶園が営まれていたのである。町内の村々でも同様であったであろう。
明治九年の県内各村々の実勢を伝える「武蔵国郡村誌」によれば、町内の製茶(荒茶か)生産高は次の通りである。
太田ケ谷村 三貫二百目
藤金村 三十五貫目
三ツ木村 四百八十貫目
高倉村 三百貫目
町屋村 四十貫目
合計 八百五十八貫二百目(三・二トン)
この生産地には脚折村が含まれていないが、三ツ木村・高倉村の両村だけで七八〇貫を生産し、総生産量の九一パーセントを占めている。これだけ多量の茶を明治九年に生産するところをみると、この両村もやはり脚折村と同じ歴史をたどったのであろう。
江戸時代には茶園はおおむね畦畔茶園で、茶の製造は農間渡世の一つであった。それが幕末開国を境にして、規模・質ともに大きく変った。茶が従来の国内嗜好(しこう)的商品から一転して、国際的商品価値をもつようになり、生糸とともに輸出商品の双璧(そうへき)といわれるようになったのである。前出「申告書」中の「業務沿革出品者履歴」には次のように記す。
わが地方は狭山の北方に位し、往古より茶樹あるも、得失償(つぐの)わざるところより、或はこれを廃するあり。否(しか)らざるも意を培養に注がず。随(したが)って製造法もまた麁(そ)なり。然るに開港以来、わが狭山茶の如きは独り外人の嗜好に適す。以て(茶は)国産の最も大なるを知り、爾後(じご)、本業に意を注ぎ、固有の茶園に培養を尽くし、以て製造を改良す。文久元年(一八六一)、二反一歩へ良種を播下す。次に元治元年(一八六四)、畑三反五畝歩へ蒔付け、培養保護にその実(じつ)を尽くす。(略)
この申告書はその末尾に「爾来、層一層勉強、良品を産出し、益々外人の嗜好に適さしめ、その信用を得んと欲するのみ」と茶園経営方針を述べている。
このことから、鶴ケ島茶も自家消費用および国内向け販売用とならび、横浜港からの輸出茶の製造に大きな比重がおかれたのである。