茶の製造は、明治時代にはすべて手揉(てもみ)みによった。一軒の農家には一枚から三枚ほどの焙炉(ほいろ)を備えていたが、一〇枚以上をおく家もあった。一日平均一焙炉(ひとほいろ)で、六貫目ほどの生葉から一貫五百目弱の荒茶を生産したという。
明治三一年、日高町出身の高林謙三によって、高林式製茶機械が発明され、実用段階まで改良されたことは既述の通りだが、静岡県を初めとする各生産地では、積極的に製茶機械を導入した。しかし、狭山地方では機械化に消極的であった。そのため静岡等の主要な茶生産地に十数年の遅れをとることになった。狭山地方で機械化が進まなかったのは、「味の狭山茶」の品質本位のためであった。しかし実質的には、機械製茶と手揉茶とは何ら優劣のない段階にまで達していた。
このような状勢のなかで、機械化の先頭を切ったのは鶴ケ島であった。大正四年上新田の小川工場で二馬力の発動機を使って、機械製茶を始めたのであった。これにつづいて翌年から県下の各工場でも機械化が進められるようになり、大正末年には急速に普及された。