鶴ケ島町では、昭和四年までに、協同製茶を目的にして三工場が設置された。『狭山茶業史』によると、表―58の如くである。
表5-58 鶴ケ島村の協同製茶所 |
設立年度 | 共同人員 | 製茶機械設備状況 | 補助金 | 名称 | 代表者 |
人 | 円 | ||||
(不明) | 一一 | 六 | 一三〇 | 第一協同製茶組合 | 平野助重郎 |
(不明) | 一一 | - | - | 第二協同製茶組合 | 同 |
昭和元年 | 二六 | 五 | 一〇〇 | 鶴ケ島第三協同製茶所 | 新井長吉 |
(備考) | (1) 『狭山茶業史』には、第三製茶所があって、第一、第二を欠く。それで地元の書類高沢家文書で補充した。 | (2) 第三製茶所が昭昭元年に設置ならば、第一、第二は同年か、それ以前のはずだが、三年となっている。 | (3) 第一協同製系組合の工場は、旧大日堂を改築・増築したものである。 |
第一、第二協同製茶所の機械設備は表―59の通りである。
表5-59 製茶機械明細書 |
昭和三年五月一三日現在 |
第一協同製茶組合分 | 第二協同製茶組合分 | ||||||||
品目 | 式名及員数 | 金額 | 品目 | 式名及員数 | 金額 | ||||
粗揉機 | 八木式大器 | 一台 | 三二〇 | 八〇〇 | 発動機 | 池貝式三馬力 | 一台 | 二五二 | 〇〇〇 |
精揉機 | 高林式最大器 | 一台 | 二〇〇 | 〇〇〇 | ボイラ | 西田式 | 一台 | 九六 | 〇〇〇 |
発動機 | 村松式三馬力 | 一台 | 一二〇 | 〇〇〇 | ポンプ | 一個 | 一六 | 〇〇〇 | |
火炉 | 不二式 | 一個 | 二四 | 〇〇〇 | 蒸機 | 寺田式 | 一台 | 三〇 | 四〇〇 |
シャフト | 三十六尺 | 一三九 | 二〇〇 | 粗揉機 | 八木式 | 一台 | 二二〇 | 八〇〇 | |
プーレイ | 九ケ | 葉打再乾粗揉機 | 橋本式 | 一台 | 二二〇 | 八〇〇 | |||
ベルト | 大 一本 小 三本 | 精揉機 | 八木式 | 一台 | 三〇八 | 〇〇〇 | |||
ネジ廻シ | 弐本 | シャフト | 一〇八 | 八〇〇 | |||||
設備費 | プーレイ | ||||||||
ベルト | |||||||||
メタル | |||||||||
カップ | |||||||||
パイプ | |||||||||
雑具 | |||||||||
設備費 | |||||||||
計 | 七〇四 | 〇〇〇 | 計 | 一、二五二 | 八〇〇 |
第一、第二協同製茶組合の組合員は、昭和三年には、新井嘉七・平野助重郎・高沢栄治・平野忠次郎・田中康秀・高沢忠次郎・高沢長吉・高沢仙三郎・平野延太郎・安野喜一・高沢平二郎の一一名が組合員で、平野助重郎が組合長であった。その後、組合員には変動はないが、田中康秀が平野に代って組合長になっている。この工場は、昭和一四年四月には高沢長三郎・新井武附・安野勝造に譲渡され、新井武附が代表者となったが、昭和三一年一一月に高沢長三郎の個人所有となった。
この組合は製茶ばかりでなく、原料となる茶樹の改良にも尽力している。その一例を挙げると、昭和三年九月に、工場付近の善能寺所有の畑が茶園として最適だと、借用を申しこんでいる。その畑は脚折下向(しもむかい)にある七畝二四歩以下三筆の土地で、寺はすでに小作に出してあった。
その借入願を読むと、脚折茶に対する業者の誇りと抱負を語るものとして興味が深い。
土地借用願
右土地は小作人により、茶園又は桑園と相成りおり候処、当組合は大正八年以降、本郡訓令の趣旨に基き共同製茶所を設置し、本県優良の製茶技術者を聘(へい)し、茶の製法を改良し、本県第一位の優良茶を産出するに至り、その結果、地方製茶の声価を向上せしめたり。然るに、茶園としては適当のものこれなく甚だ遺憾にして、これが改善に就てはそれぞれ力を尽しおり候。偶々(たまたま)、工場付近の前記土地より産する茶は、品質頗(すこぶ)る優良にして、かつ霜害の憂いなく、茶園には最も適当の土地にこれあり、かかる本村唯一の名物たる茶園に適当の土地を現在のままに経過するは、頗る遺憾の次第につき、該土地を一手に借入れ、従来の茶園は栽培を改良し、その他の地区は茶種子を播種し、名物たる茶産地の名に恥じざらんよう致したく候については、前記土地御貸し下げ相なりたく、尤(もつと)も、本組合が一手にこれを借り入るるとも、現在の小作人に於て管理希望の者には、適当なる茶園栽培法を本組合より指定し、管理方を嘱託する等、当組合よりそれぞれ交渉致すべきにつき、斯業(しぎよう)御奨励の意味に於て、特別の御詮議(せんぎ)に預かりたく此段相願い候也。
昭和三年九月五日
鶴ケ島協同製茶組合
組合長 平野助重郎
善能寺住職諸井政勇殿
外檀徒惣代御中
製茶工場の協同化は、機械化の導入と密接な関係をもっていた。昭和二年二月の「狭山時報」巻頭言には「協同製作所設立の急務」と題して、「機械工場の設立には、地方の状況により、個人的な企画は頗る困難の多い場合が少くない。例えば一戸当りの栽培少き地方の如きに於て、個人的の機械工場はもちろん不可能というべきである。かかる場合に於て協同製茶所を設置するは、容易に機械化の促進を行い、茶業経営を有利ならしめるのである。」と主張している。
先述の大日堂跡の協同製茶所では、昭和初期には高林式の製茶機械を使用したが、戦後は八木式に代えたという。また、事業主も共同から個人経営に代ったという。(高沢長三郎氏談)