現在の鶴ケ島茶業

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戦後の茶園荒廃から復興へと急速に進んだ狭山茶の発展と歩みを一つにして、鶴ケ島町の茶業も後れをとるようなことはなかった。昭和二八年に荒茶生産量は二七・二トンであったが、一年後の三五年には五四トンと倍増した。この頃から大型製茶機械の導入が進み、都市化に伴う人手不足も解消されるようになった。また、消費地であり、生産地であるという立地条件の有利さもあって、五三年には、荒茶生産量一二三トンと最高の生産量を記録した。
 しかし、幸運ばかりに恵まれたわけではなかった。五九年早春この地方を襲った再度にわたる豪雪のため、狭山茶は深刻な打撃を受けた。この異常気象で摘採前の若葉の多くが赤枯れ型被害に見舞われ、この年の荒茶生産量は例年の四分の一にまで落ちこんだのである。それでも翌六〇年度には盛り返し、荒茶生産量は六四トンと大きく回復した。

図5-26 鶴ヶ島の荒茶生産量の変化

 昭和六〇年現在、町内の製茶業者は一三戸である。一般消費者の嗜好の変化と、飲食品の多様化といった状況のなかで、茶業協会や茶業研究会等の組織を通じて、優良品種の普及に努め、この地方の特産物である狭山茶の製造についての研究と実践が重ねられている。

町内の茶園

   〔参考文献〕
  埼玉県茶業協会『茶山茶業史』
  埼玉県『狭山茶の将来』
  高沢家文書