1 戦前の商工業

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 明治九年に調査した「武蔵国郡村誌」の物産・民業の項目を見ると、鶴ケ島町内の旧村々では、絹・木綿の紡織と、製茶・酒造等の農民的商品生産が行われていた。商業については『鶴ケ島町郷土資料集』第二集によると、〝商店〟の項には次の詳細な記録がある。
   高倉には商店はなく、酒造家が一軒あった。脚折では才道木(さいどぎ)に駄菓子・濁酒(どぶろく)を売る店一軒あり、五味ケ谷・下新田でも酒は村内で購入した。油屋については、脚折の平野竹一宅は通称油屋だから、油絞(しぼ)りをやっていたのではないか。高倉には油屋はなく、浅羽まで行って、持参の荏(えごま)と油とを交換した。五味ケ谷は坂戸や川越へ買いに行った。菓子屋・小間物屋・呉服屋・仕立屋・染物屋・鍛冶屋などは地元になく、坂戸・川越へ出て買った。しかし、脚折には紺屋・機屋・鍛冶屋の屋号があるから、それぞれの加工・製造・販売を営んでいたものと思われる。
   行商人は、薬は越中富山の薬売りが来た。薬を袋に入れて各戸におき、年一回薬の引換えに訪れた。越後の毒消(どくけし)売りも来た。
   市(いち)は、坂戸が二・六・九、越生(おごせ)は三・八の日が市日(いちび)となっており、年中どこかで市が開かれていた。暮の市は坂戸・厚川・遠くは扇町屋・川越で開かれた。
   買物に行く場所は、主として坂戸へ行き、穀類は太田屋、呉服は藤屋・安斎で買った。遠くは川越、飯能までも行った。
 以上は、明治初年の農村生活についての「古老の聞書」であるが、純農村としての鶴ケ島には、商店らしいものはなく、買物はもっぱら近隣の店屋ないし市日で用を足した記録である。
 このような村の情況は、明治末期になっても、さしたる変化もなく、旧態依然としてつづいていた。ただ家内制手工業として製糸・織物の比重が大きくなってきた。
 「鶴ケ島村郷土地誌」には次の記載がある。
  工業 工場を設けて、大規模の工業に従事するものなく、自宅に於て製糸機械・藁(わら)細工等に従事するのみなり。絹布は越生絹市場に売り、生糸・藁製品等は近在仲買人を経て、これを売却す。
  商業 本村は純農村にして、商業・工業等には何ら見るべきなし。商業は日用雑貨の商店と、飲食店とあるのみにして、他は薪炭・糸繭等の仲買人などなり。
 大正末年になると、村内商工業者の間で横断的なつながりが形成され始めた。大正一四年には、「鶴ケ島村商工会設置認可申請書」が県に提出された。この申請書で、職種別商工会員数をみると、次の通りである。
 物品販売業―三六 糸繭商・蚕種販売―一二 材木商―一〇 薪炭業―七 自転車販売―四 大工職―二 飲食店―一 青物商―一 鶏卵商―一 魚商―一 小間物商―一 豚肉商―一 荒物商―一 酒類販売―一 ツケギ商―一 麺製造業―一 鳶職―一 請負業―一 屋根職―一 鍛冶職―一
 これを地域別に分類すると、
 脚折―二一 太田ケ谷―一八 五味ケ谷―一三 上新田―一二 高倉―六 中新田―五 町屋―四 下新田―四 三ツ木―二 上広谷―二
 この他に、会員以外の業者もいるだろうが、とにかく業者は広範囲に散在しており、まとまった商店街が形成されてはいなかった。
 昭和に入っても、産業別就業者の割合にさしたる変化は認められない。但し、工業生産量(価額で示す)は、在来の工業を中心として、相対量・絶対量ともに増加傾向を示している。特に製茶と製粉(小麦粉)の増加が顕著である。(表―61)

図5-27 産業別生産価額表(昭和元年~17年)

表5-60 昭和元年工産物数量及び価額
種類藁製品木製品味噌製茶合計
建具其ノ他
数量四、〇〇〇貫一、二一〇 
価額(円)七、六〇〇七五〇一、三五〇二、一〇〇四、一〇〇八、四七〇二二、二七〇

表5-61 昭和17年工産物数量及び価額
種類藁工品竹製品木製品金属製品
建具其ノ他刃物類其ノ他
数量
価額(円)一、五七七一、四二〇二、五〇〇一、三八二三、八八二一、二〇〇二、二〇八三、四〇八
 
種類製茶小麦粉麺類蚕網合計
数量六、一二八貫六〇、四八〇 五、五〇〇 
価額(円)八四、五六六六五、三一八七、八六五一〇〇一六八、一三八
いずれも『村勢要覧』より