2 日本経済の再建と工場誘致条例

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 既に第五章の「町村合併」の項で記した通り、鶴ケ島の「工場誘致条例」は、当時の村を揺るがす大事件であった町村合併問題に付随して制定・実施されたものである。しかし、その背景には日本経済の目ざましい復興と発展があった。
 戦争のため日本経済の受けた打撃は極めて深刻で、ほとんど破産状態であった。その上、戦後インフレの昂進は二四年のいわゆるドッジ・ライン(日本経済安定政策)の実施までつづいた。しかも、この方策はインフレを収束させたが、同時に日本経済を恐慌状態におとしいれることになった。この恐慌は二五年にはいると益々深刻となったが、同年五月に朝鮮動乱が勃発するに及んで、恐慌は中止し、極めて短期間ながら、輸出の急増と特需の発生によってブームをひきおこした。ところが、翌年に戦争が終結すると、特需の消滅と、アメリカの景気後退による輸出の停滞によって、二七年の日本経済は恐慌状態におちいった。このような経済破綻にあって、政府は緊縮政策によって時局を切り抜けようとしたが、この緊縮政策がまた不況をよび起こした。二九年になってようやく、世界経済の景気がたちなおりはじめ、輸出も漸増する反面、輸入も減少した。そして、三〇年には〝神武天皇いらいの好景気〟いわゆる〝神武景気〟が出現した。その一段落とともに、三二年以降の不況、いわゆる〝なべ底景気〟におちいった。
 しかし景気は、東南アジア市場の進出と、政府の公共事業や財政投融資のテコ入れによって、上向を再開し、一転して〝神武景気〟をしのぐ〝岩戸景気〟となった。
 鶴ケ島村に「工場誘致条例」が制定されたのは昭和二九年である。不況のさなかにあって、工場誘致による村の活性化と、村民の雇傭対策の一環とすることを目的としたものであろう。
 昭和三二年一一月、工場誘致対策を実施するための「鶴ケ島村建設計画」が議決された。この計画に基づいて三四年に養命酒工場の誘致が決定された。そして三六年に、鶴ケ丘に養命酒製造株式会社第三工場が、誘致工場第一号として設立された。
 昭和三〇年代の「神武景気」・「なべ底景気」・「岩戸景気」と、景気遁環時代に村内に設立された主要な工場は表―62の通りである。
表5-62 主要工場
(資本金5,000万円以上または従業員300以上の工場)
名称所在地資本金従業員数製品名設立年
万円
ノザワ東京工場下新田五二-一一〇〇、〇〇〇A石綿スレート昭三四
松田製作所上広谷七〇一七、〇〇〇B通信機器昭三七
日本ベルクロ藤金八五二五、〇〇〇A布製ファスナー昭三九
養命酒製造第三鶴ケ丘三三一一〇〇、〇〇〇A酒類昭三六
東光埼玉工場五味ケ谷一八六七、五〇〇C電気通信機器昭三五
東洋電装太田ケ谷一、〇五一一〇、〇〇〇C車輛用電装品昭三九
ゼンザブロニカ富士見二〇一一〇、〇〇〇Bカメラ・ガスライター昭三八
(注)A=299人以下
   B=300人~499人
   C=500人以上
『埼玉県市町村誌』による

 これらの工場群の進出は、この町が村から町へと発展していく原動力となった。
 昭和三四年には従業員四人以上の事業所が四社、その従業員数は一二六人であったが、三六年には九社で八四人となり、三七年には一四社、一、六七四人と増加しており、この頃から鶴ケ島の産業構造が変化し、人口の急増加が始まった。