町の西端を横切る鎌倉街道上道は、古代から陶器の運搬路その他として頻繁に利用され、特に中世には歴史の表舞台に至る通路として重要な役割を果してきた。鎌倉街道の名を有する道路(跡)は、他にも数本町域を通過しており、いずれもかつて主要な地方道であったことが窺える。
近世に入ると、八王子と日光とを結ぶ日光街道がクローズアップされるようになる。また、川越や越生、坂戸等の町場や市へと通ずる道も重要度を増し、近代の道路交通網の基盤を形成した。
これらの歴史の道は、一般にその目的地名をもって、鎌倉街道、奥州道、柏原古道、飯能街道、市道、日光街道、八王子道、川越街道、越生道、高麗街道、河岸街道、江戸道、などといった様に呼称された。
近代以降、人々の移動制限が廃されて、交通は量的にも質的にも飛躍的発展の基礎を得た。「鶴ケ島村郷土地誌」(明治四五年)の「運輸、交通、道路、鉄道」の項には、以下の様に記されている。
運輪機関は、道路を利用し、荷車、荷馬車に依るの外なく、越生町より川越町に出ずる村を横貫し、木材の搬出、貨物の輸送、行人の往来頻繁なり。
越生町より川越町に至る乗合馬車ありて、毎日四回往復す。現今、唯一の交通機関なり。
又、八王子藤岡道路(県道)は、高萩村より本村に入り脚折を縦貫して坂戸町に入る。
東方は、川越小川道路(県道)三芳野村より戸宮に入り勝呂、高坂、菅谷村等を経て小川町に至る。
川越今宿道路(県道)は名細村より五味ケ谷上広谷の間を経て坂戸町に至る。
ここで言う乗合馬車は、通称テト馬車と呼ばれた。これは、駅に近付くと馭者がラッパをテートウ、テートウと吹いて合図をしたために名付けられたといわれる。テト馬車は、大字脚折字才道木にあった駅=馬車屋に於て客を乗降させた。ここには交替馬が数頭つながれており、継馬の場所ともなった。近くには、飲食ができ、駄菓子類や麩湯(ふすまゆ)(馬の飼料)も売る馬方宿、馬立場があった。
テト馬車が活躍したのは大正期までで、その後は乗合自動車(一四、五名乗)の出現により姿を消していった。