私塾

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私塾は、寺子屋よりも高度な教育を施す私的教育機関で、主に漢学、国学、算学、武道が教授された。
 (一)漢学・国学
 鶴ケ島周辺では、森戸村(現坂戸市)の大徳院塾が有名である。大徳院塾は、文政期から大正年間にかけて本山派修験である大徳周応、周乗、士龍の三代にわたって開塾された寺小屋併存塾で、鶴ケ島からも門人、筆子が通塾していた。また、大徳院塾門下の修験高麗明純、大記父子により、新堀村(現日高町)に高麗塾が設けられ、鶴ケ島からも豪農の子弟が通っている。
 鶴ケ島では、上新田村に知源薬室という私塾があった。知源薬室の名は、開塾した小川氏が代々医業を営んでいたことから命名されたもので、その実質は寺小屋に近いものであったと思われる。登門録には、嘉永元年(一八四八)から明治五年(一八七二)までの間に、七七人の門弟の名が見られる。門弟の半数近くは上新田村内の農家の子弟で、残りは周辺の村々から通っており、入門時の年令は七~一四歳であった。
 (二)算学
 本県の算学教育は、天明(一七八一~一七八九)の頃から始められ、文化文政期(一八〇四~一八三〇)に隆盛となったようである。流派としては、主流であった関流とともに、至誠賛化流や最上流が盛んであった。
 鶴ケ島でも江戸時代から算学が学ばれていた。藤金の宮沢仁輔家には、幕末から明治にかけての算学関係の写本や版本が若干数残されている。これらの中には、最上流の大立物であった大野旭山の印の押されたものもある。
 明治四年には、大野旭山を願主として、藤金村の鎮守である氷川神社(現在太田ケ谷の高徳神社に合祀)に算額の奉納が計画された。実際に奉納があったかどうかは不明であるが、助力を依頼された門人連中として藤金村の四人の名が「奉額連名帳(宮沢家四八)」に挙げられている。このうち、宮沢家先祖喜十郎は、門弟五三五人を擁した大野旭山六人の高弟中の一人であった。
 (三)武道塾
 近世には、武道は武士階級の専有物とされたが、それも中・後期に身分制度に乱れが生ずるに伴ない、農民や町民の間にも武道の振興をみるようになった。本県にも多くの道場が開設されたが、その主なものは剣術道場で、柔術などの道場も存在した。鶴ケ島周辺の道場としては、表―70がよく知られているが、これら以外にも地方の小道場は少なくなかった。
表5-70 鶴ケ島周辺の道場
住所指導者流派道場名開廃の時期
川越市中町大川平兵衛英勝神道無念流安政~
坂戸市横沼大川平兵衛英勝神道無念流文政七年~明治
〃  片柳関口宇助甲源一刀流天保~昭和
〃  浅羽横田右馬之介正秀天然理心流弘化~明治
〃  欠の上小島才三正長天然理心流
〃  成願寺木下勇天然理心流水月館明治四十三年~昭和
入間郡日高町梅原比留間与八利恭甲源一刀流文化一年~明治
『埼玉武芸帳』より

 これら道場主の出身階層は農民が圧倒的に多い。門弟数は、比留間道場で四、〇〇〇人、大川道場で三、〇〇〇人といわれ、一般に農閑期を利用して稽古がなされた。