寺子屋

711 ~ 712
一般庶民の教育機関は寺子屋であった。寺小屋という名称は、寺院の学童が寺子と称されたためとされるが、実際の呼ばれ方はまちまちであった。
 鶴ケ島では、現在表―71の寺小屋の開設が確認されている。いずれも石碑、墓石等から所在が確認されたもので、実際には更に多くの寺小屋の存在したことが予想される。
表5-71 鶴ケ島の寺子屋一覧
所在地名称師匠氏名異称身分没年享年寺子数
高倉高福寺賢栄(浅野氏)僧侶嘉永二(一八四九)七五
長泉寺祐山尼尼僧天保七(一八三六)二八
脚折白鬚神社宮本貢正福院良栄修験・神官明治二三(一八九〇)五七数百
大塚野新田馬橋家馬橋吉右衛門保教農民天保九(一八三八)四四数百
馬橋歌次郎保得農民明治二七(一八九四)七九
三ツ木福島家福島忠之輔明治四〇(一九〇七)一三五以上
太田ケ谷満福寺十四世応滂僧侶天明九(一七八九)
十五世邦寛僧侶寛政二(一七九〇)
十七世義祐僧侶文化二(一八〇五)

 この表から、一八世紀の後半には既に寺小屋の開かれていたことが解る。年代的分布としては、近隣諸地域同様、鶴ケ島の寺子屋も近世後期から幕末、明治にかけて集中している。
 地域としては、上新田、高倉、三ツ木、脚折、太田ケ谷、大塚野新田に所在が確認されるが、上広谷、五味ケ谷等の記録が見当らない。後に鶴ケ島学校の分教室(鶴ケ島第二小学校の前身)が上広谷村の正音寺に置かれたことから考えて、この地域にも寺小屋の存在したことが推測される。

寺子屋の情景(藤縄惇一郎氏提供)

 師匠の身分は、僧侶が五名、修験(後に復飾して神官)一名、農民三名であった。このうち、宮本貢と馬橋歌次郎については、門弟により筆子の碑が建立されている。