明治四年(一八七一)七月、文部省が創設され、翌五年七月には我が国近代最初の教育法規である「学制」が発布された。「学制」の基本的精神は、新政府の国策である富国強兵実現のための教育の近代化にあった。それは、具体的には「邑ニ不学ノ戸ナク、家ニ不学ノ人ナカラシメン事ヲ期ス」(「学制」)という普通教育の振興と、「学問は身を立てるの財産ともいふべきもの」(「学事奨励に関する被仰出書」)という実利主義として示された。
「学制」の定めにより、全国に八つの大学区が置かれ、更に中学区、小学区と分けられた。鶴ケ島は、第一大区第一四中学区七五小区と第一五中学区二〇三小区とに属し、それぞれ後に太田ケ谷学校、鶴ケ島学校とが置かれた。
「学制」発布に伴ない、入間県も独自の施策をもって小学校の設立を進めたが、実際にその実現をみたのは六年に入ってからである。六年には一三九校、七年には一三八校が設立され、鶴ケ島でも六年に太田ケ谷村満福寺に太田ケ谷学校が設けられた。この頃、脚折村や西部地域の子弟は明治六年森戸村西光寺に設立された北三芳野学校に通っていたが、明治八年七月には、脚折村、高倉村、下新田村の児童を対象として、脚折村善能寺に鶴ケ島学校が開設された。