「学制」は西欧先進国を模範として制定されたものであるが、我国の教育界の実情には適合しないものがあった。そのため明治一二年九月「学制」が廃止され「教育令」が布告された。「学制」が中央集権的であったのに対して、「教育令」は地方分権的な教育制度といわれる。
「教育令」下においては、生徒の就学率の下降をはじめとする教育衰退の傾向が認められた。そのため、政府は明治一九年「学校令」を公布し、教育制度の大規模な再編成を試た。
「学校令」は、初代文部大臣森有礼により推進された。後世森文政と呼称された彼の教育政策は、個人のための教育を否定し国家のための教育を唱導するもので、政治上の富国強兵のスローガンと深く結びついたものであった。
森が普通教育充実により国家興隆を図ったのに対して、実業教育振興により国家富強の実現を期したのは井上毅であった。井上は、明治二六年日清戦争の直前に文部大臣に就任し、「実業補習学校規程」や「徒弟学校規程」を公布するなどして、日本の実業教育を基礎付けた。