大正五年(一九一六)一二月には、第一小校庭に日清日露戦没軍人の忠魂碑、及び両戦役歴戦軍人の記念碑が建立された。
大正後期より始まった不景気は、昭和四年(一九二九)の世界恐慌を契機として一挙に日本経済を深刻な状態に陥らせた。その結果、国家主義運動が盛り上りを見せるとともに、急速に戦時色が強まっていった。教育の分野でも、皇国思想を軸とした運動と制度改革が次々と実施されていった。昭和一〇年(一九三五)一一月には、第一小において奉安殿及び武器庫の竣功式が挙行された。
昭和一三年より学徒の勤労動員が指示され、戦局の悪化とともに強化されていった。昭和一六年四月、「国民学校令」が施行され、「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的練成ヲ成ス」ことを目的として、小学校は国民学校と改称されていった。また、諸学校の修業年限も短縮され、昭和二〇年に入ると「戦時教育令」の公布等により教育機関としての学校の機能は大部分喪失した。「戦時教育令」には、学徒の本分は「尽忠以て国運を双肩に担い、戦時に緊切なる要務に挺身し、平素鍛錬せる教育の成果を遺憾なく発揮すると共に智能の錬磨に力むること」であると定められ、教職員の任務は「率先垂範学徒と共に戦時に緊切なる要務に挺身、倶楽倶進以て学徒の薫化啓導の任を全うすること」であるとされている。
戦争の末期には、疎開してきた児童が地元の学校に通うようになった。昭和一七年度以降、鶴ケ島第二国民学校では、二学年で一教室という複式授業が解消され、教室が不足するという事態を迎えた。加えて、校舎の一部が陸軍坂戸飛行場に配属の兵士宿舎となるに及んで、殆んど満足な授業の行なえる状態ではなくなっていった。
戦後、学校教育の再出発に際しては、第二国民学校の場合、教室だけではとても足りず廊下でも授業が行なわれ、のみならず、近くの林を教室に見立てて仮授業が行なわれた。小さい黒板を前に、子供たちは木の根株に腰掛けて教科書を開いたという。
なお、戦前は、現在のいわゆる夏休みはなく、農繁休業が設けられていた。昭和九年までは、五月中~下旬の三日間(茶摘)と六日上~下旬の一〇日間前後が休みとされたが、昭和一一年からは茶摘のための休みは廃止されている。