表5-74 就学率の変化 |
(%) |
鶴ケ島学校(第一小) | |||
年 | 男 | 女 | 平均 |
明治7 | 35 | ||
13 | 63 | 37 | 54 |
17 | 83 | 24 | 52 |
25 | 39 | ||
33 | 85 | 73 | 79 |
34 | 100 | 98 | 99 |
35 | 100 | 98 | 99 |
「熊谷県小学校生徒試験表」田中家347・1096,県行政文書,明807-2-8,第一鶴ケ島尋常高等小学校学校沿革誌 |
厳密には、ここでいう就学とは在籍とでもいうべきもので、学制期を通じて就学児童の二割前後は欠席していたといわれる。また、明治七年の就学率は「熊谷県小学生徒試験表」(『埼玉県教育史』第三巻)によるが、この時期、鶴ケ島学校は未だ設立計画中の段階であり、疑問が残る。
埼玉県では、明治九年一月、就学促進の手段として「不就学督促法」を施行、同法は熊谷県との合併後も適用された。この実施に関しては、管内各区村々の就学実体を精細に調査し、特に就学率の悪い区村々には県官を派遣して就学を指導した。しかしこれら努力にも拘らず、その効果は容易に現われず、就中貧困を理由とする不就学、及び女子の不就学の問題は中々解決しなかった。
明治一一年、脚折村の不就学児童の二〇名(男五、女一五)の不就学理由内訳は、貧困六名、病身六名、機織習四名、子守二名、病身の祖母介抱一名、不明一名、となっている。また、高倉村の不就学児童二三名(男一、女二二)の不就学理由内訳は、貧困一三(自家使役九、他家使役四)、病気五、自家使役二、不明三である。
明治二五年(一八九二)になっても同様の状態が継続したらしく、「高麗郡鶴ケ島役場監視調書」(明治二五年三月一〇日巡視。県行政文書、明八〇七―二―八)には、「学齢児童就学」の状況が以下の様に記されている。
○就学一七一人 ○不就学二六三人 ○中途退学不詳 ○不就学ノモノハ就学猶予の許可ヲ得タリ ○不就学ノ原因ハ貧困ナリ即チ子守奉公ナドヲナサシムルニ依ル
明治三三年、尋常小学校の授業料が廃止されると、就学率は飛躍的に高まった。しかし、これは学籍簿に登録された者を示す数値であり、実際の出席率となると、第二鶴ケ島尋常小学校(大正二、三、四年度)を例にとると、三~五パーセント程低くなっている。