昭和二〇年八月一五日の敗戦により、戦時下の教育理念は、ポツダム宣言に盛られた民主主義的な新教育理念に取って替られ、教育の制度、方法、内容も一大改革を迫られた。早くも二〇年九月一五日、文部省は「新日本建設の教育方針」を発表した。そこでは、今後の教育はますます「国体の護持」に努め、「軍国的思想及施策」を払拭し、平和国家の建設を目途として「国民の教養」を深め、「科学的思考力」を養い、「平和愛好」の念を育成することなどを教育の重点とする、と述べられている。
これとは別に、連合軍総指令部でも、制度や人事、教科などに及ぶ教育政策の指定を行なった。
これらによって、戦時教育体制の一掃が図られ、続いて民主的教育体制の樹立が目ざされた。二二年三月、「教育基本法」を公布して、「日本国憲法」の精神に則り民主主義教育の基本原則を法的に確立し、同時に「学校教育法」公布により、いわゆる六・三・三・四制教育の機会均等の原則、男女差別の撤廃、等を定めていった。
また、二三年七月、教育行政の民主化、地方分権化、自主性確保を根本理念として「教育委員会法」が制定、公布された。本県下において市町村教育委員会の設置されたのは、昭和二七年(一九五二)一一月のことである。