しかし、この当時は経済的にも社会的にも混乱期で、どの市町村も校舎を初めとする諸設備や教員の不足に悩まされた。
鶴ケ島中学校の新築校舎が完成したのは昭和二六年九月のことで、それまでは第一小学校校舎の一部を充用して授業を行なった。その結果、小学校の教室も不足し、昭和二五年から中学校校舎が新築されるまでの間、二部授業が実施された。
第二小学校の、終戦直後の状態に関しては先述した通りである。疎開児童も除々に少なくなってはきたが、それでも教室不足は依然として深刻で、二部授業の解消は二五年五月増築工事による三教室の落成を俟たねばならなかった。
昭和四〇年代に入ると、急激に小学校児童数が増加するようになった。第一小では四三年、第二小では四四年(四七、五〇年に第二期、第三期工事)に新校舎を建設したが、それだけでは間に合わず、プレハブ教室を増築することで急場をしのいだ。かくして五三年に新町小学校、五四年杉下小学校、五五年長久保小学校、栄小学校、五八年藤小学校、六〇年南小学校を開設して教育需要に備えた。
鶴ケ島中学校でも、昭和四〇年代後半より生徒数が急増し、仮設のプレハブ校舎を設置してそれに対応した。五二年(五三、五四年に第二期、第三期工事)新築校舎が完成したが、教室不足の解消には五四年の藤中学校の開設を必要とした。実に五六年には富士見中学校を、六〇年には西中学校、南中学校の二校を開設した。
鶴ケ島第一小学校の旧校舎
移転前の鶴ケ島第二小学校
昭和40年当時の鶴ケ島中学校校舎
図5-29 鶴ヶ島町の学校の変遷