青年団への再編

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第一次世界大戦直前の大正三年(一九一四)、護憲運動の昂揚の中で文部省は「地方青年団体ニ関スル件」を発し、青年団体の政治関与を厳しく規制する方向を打ち出した。また県でも大正五年二月「青年団体規程準則」を制定、名称を青年団となし、団員を一二歳以上二五歳未満と定めた他、組織、活動の統一が図られた。これを受けて鶴ケ島村でも、大正七年五月青年会が発展的に改組、鶴ケ島村青年団に再編され、新たに女子により処女会が結成された。
 村青年団の活動として注目されることの一つは、運動、とりわけ陸上競技の盛んであったことであろう。村の青年団員に、様々な競技会において優れた成績を残し、鶴ケ島の体育・スポーツの振興に大きく貢献した。
 また、処女会は昭和二年女子青年団と名称を変更、昭和八年には青年団も男子青年団となっている。この当時の青年団の団員数及び活動目的は、『鶴ケ島村勢要覧』(昭和一〇年)によれば、以下の通りであった。
名称団員目的
鶴ケ島村男子青年団一八〇智徳ヲ涵養シ身体ヲ鍛練シ以テ健全ナル国民善良ナル素養ヲ得セシムルニアリ
鶴ケ島村女子青年団九五女子ノ智徳ヲ涵養シ必須ナル技芸ヲ練習シ良妻賢母タルノ基礎ヲ作ルニアリ

 青年団は、戦時体制の強化とともに、大日本青少年団、大政翼賛会、学徒隊、国民義勇戦闘隊へと組み入れられていった。鶴ケ島村青年団も、昭和一六年解散となった。

昭和12年頃,青年団による県道補修奉仕事業(柳沢釼太郎氏提供)