終戦とともに、直ちに青年団再結成の動きが始まる。早くも昭和二〇年度中に、鶴ケ島村青年団及び各字分団が組織され、新生青年団の活動がエネルギッシュに展開されるようになった。
このような急速な青年団再結成の動きの背景として、文部省や県による強力な指導があったが、同時に復員兵たちを初めとする青年たちの、戦前戦中の国家統制からの解放感のあったことは見逃せない。
村青年団は、事務所を第一小学校内に置き、総務部、文芸部、農芸部、体育部、言論部、社会事業部を設けてそれぞれ活動した。
昭和二一~二五年頃の青年団活動を特徴づけるものとして、青年団員による素人演芸活動がある。この当時の青年団の娯楽性の強さは全国的な傾向で、それに対する批判の声もあったが、青年たちの置かれていた社会状況が反映したものといわれる。
こういった娯楽的要素の強い青年団活動は、徐々に教養、レクリエーション色を強め、それまでのヤクザ踊りマドロス踊りといったものは、新しい家庭生活の模索や地域社会作りを目ざした寸劇などに代っていった。
しかし、昭和三〇年代に入ると、青年の都市流出と生活様式の変化が進み、組織及び活動の両面から青年団の存在意義が稀薄化していった。青年団加入者は年々減少の一途を辿り、昭和三六年にはとうとう四〇名にまで陥ち込み、この年、ついに長年にわたり鶴ケ島の社会教育的実践を担ってきた鶴ケ島村青年団は解散の止むなきに至った。