公民館

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戦後日本の再建に向けて、市町村の社会教育施設としての公民館の設置と運営とが構想された。昭和二四年には「社会教育法」が公布され、公民館の設置運営、事業、国庫補助等について規定された。これにより、各地に公民館が設置されるようになったが、しかし、新制中学校校舎建設に追われる各自治体に、専用施設の建設は困難であった。
 鶴ケ島村では、昭和二七年二月、鶴ケ島村公民館の設置が議決され、本館が第一小学校内に、分館が各字に置かれることとなった。事業部として総務部、文化教養部、産業経済部、体育厚生部が設けられ、青年団、婦人会等と連動して多様な分野での活動を展開していった。また、この年刊行された「鶴ケ島村公民館便り」は、現在の「広報つるがしま」の前身ともいうべきもので、年四回発行され村の動向を伝えた。
 昭和三二年一一月には、鶴ケ島村新生活運動協議会が発足。以降、全般的な価値観の改変と家庭生活、社会生活の近代化に向けて、①自主性の確立②家庭生活の民主化③生活様式の合理化、を三本の柱に、精力的な啓蒙活動を行なった。とりわけ③に関しては、衣食住の改善、家庭経済の合理化、保健衛生の徹底、習俗の改善、健全娯楽の振興、などといった面で、具体的な実践がなされた。
 しかし、昭和三〇年代の半ば頃から、経済・社会的な基盤の変化に伴い、村の生活形態が大きく変貌し、青年団、婦人会、新生活運動協議会等の組織の衰退が始まった。このことは、当時の町村合併を巡る動向の中で策定された「鶴ケ島村建設計画」と相俟って、公民館建設の気運を高めていった。
 かくて、昭和四一年度の町の重点事業として、鶴ケ島町公民館が建設された。軽量鉄骨造、本館五二八平方メートル、講堂四四一平方メートル。一一月一九日の落成式に際して公民館長は「公民館も昭和二四年(ママ)の発足以来二〇年近く祖国再建の役割を担って今日に至り…」と村の再興に大きな役割を果してきた公民館の在り方の転換を述べた。
 昭和四〇年代の半ばを過ぎると、急激な都市化と人口増により、住民の日常生活圏の広域化、職業、勤務地、生活観、価値観の多様化がもたらされた。こうして、多面的で細分化された住民の意欲を実現するための方法と場が、公民館活動に求められるようになってきた。その結果、昭和五六年にコミュニティーセンター、西部会館(現西公民館)が、五八年にコミュニティーセンターに併設して東部会館(現東公民館)が、六〇年に南公民館、六一年には北公民館が建設された。