雨乞行事と鶴ヶ島

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 農業が生産活動の大半を占めた時代、天候の順不順はムラ人の生活に重大な影響を及ぼした。とりわけ日照りが長く続いたりすると、田にしても畑にしても収穫量は激減したものであった。こうした時に雨が降れば「よいお湿りです」と喜び、ムラごとにアメップリ正月をして仕事を休んで雨を祝った。しかし天候は人為を超えたものであるから、超自然的な力に頼らざるを得ない。そこで降雨を願って雨乞が行われた。
 雨乞にはいつくかの段階があるとされる。当初は身近な神仏に祈ったり、水源などの水場に行って水量増加を願ったりする。それも個人や少人数による行為である。しかし願いがなかなか適えられないとなると、雨乞をする人数も増え、代参人などを立てて遠方のより威力のある神仏などに祈るようになる。雨をもたらす神社の池などからお水をもらってきたり、雨や水を司る龍神をかたどったものを作ったり、雨や水の神をわざと怒らすような行為をしたりする。要するに降雨を祈り願う行為は、段々とより大規模化し、複雑化し、また、激しくなっていくものとされる。
 鶴ヶ島では脚折の雨乞が全国的に知られている。これはかなり高度に発達した雨乞であるが、それ以外にも簡単な雨乞は市内各地で度々行われてきたと思われる。例えば藤金のマンゼエロクは豊富な湧き水で知られていたが、日照りの際には近隣のムラから水を汲みにここを訪れる人が時折いたという。五味ヶ谷には大山阿夫利神社(神奈川県)にかかわる石燈籠がある。この神社は降雨の神としても知られ、石燈籠には「雨降山」とその名が刻まれており、降雨祈願との関連をうかがわせる。また、下新田では、戦前の日照りの際に、お水もらいと百万遍念仏によって降雨を祈った。この時は、武州御嶽神社(東京都青梅市)に複数の代表者が赴き、祈願を受けた御神水をもらい、道中休みなくムラに持ち帰った。それを羽折稲荷神社で再び祈願して境内に撒き、更にムラ人は社前で大数珠を使って百万遍念仏(この場合は般若心経と光明真言)を唱えながら数珠送りをした。御嶽神社の御神徳と仏法の加護により雨を呼ぼうとしたわけである。


昭和24年の脚折雨乞行事