明治時代の雨乞行事の様相

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明治二十六年の雨乞行事「雨乞諸入費記載帳」より

 明治二十八年八月上旬は長い日照続きで、脚折中の田畑作物は生育に大きい打撃をうけ、人々は苦悩した。折しも昔から伝わる雨乞をして、作物を守ろうと字中の協議がなされ、御神水もらい、雨乞行事の諸準備、神宮の祈願等実施の具体的な事柄が字中総会で決定された。
 翌八月十三日二名の代表が夜明けとともに、わらじぞうりの旅支度で信州戸隠山に向かって旅立ちをした。 坂戸宿、高坂、松山宿を通り抜け、足早の旅は上岡に着く、茶店で一服休みし茶代一銭(二人分以下同じ)を払い再び急ぎ足ではやる心を熊谷に向かった。
 途中荒川で橋銭八厘を払い足早に熊谷停車場に着く。時計は八時前。したたる汗を手拭でぬぐい、氷水をとり(二銭)一服す。
 八時五分熊谷-長野行切符(汽車賃二円五十銭)を買い汽車に乗る。ほっとする。だが足は汽車まかせ早く戸隠へ行きたい。御神水を受けたい。こうした気持ちの血が身体中をかけめぐる。汽車は黒煙を吐き山を登る。軽井沢で昼食(十二銭)と氷水(四銭)をとる。長い旅談儀は続き長野に着いたのは午後三時三十分であった。暑さ凌ぎに茶店で一服(六銭)氷水(四銭)をとり鋭気を養う。
 長野から戸隠は行程二里である。長い汽車の旅から再び歩きの旅にうつる。長野を後に炎天下わらじを運ぶことしばし、道中一の鳥居の茶店で小休み(五銭)して目ざす戸隠山に向かう。平坦な戸隠高原に重い足を進めて芋井村を過ぎると戸隠である。
 目的の山本坊に着き長旅のわらじを解く。茶の接待を受け、おもむろに参上した事の由を告げた。
 その夜は檜風呂に入り汗を流し信州名物戸隠そばを賞味し、日照り話から明日の打合わせをなして床に入る。夜の静けさと高原の独特な冷涼な気にふれ、炎天下の旅をしばし忘れる。
 明けて八月十四日は朝食後神宮に御神水使節料(十五銭)と樽代(五銭)樽結付用晒(さらし)切代(五銭)を支払い旅支度をして山本坊を立つ御神水とりの池までは二里半あると聞く。この日は御神水とりに一日を費やし再び山本坊に帰り御神水を神前に供い、明日の旅達について相談し床に入る。
 翌十五日打合せ通り夜中に床を離れ会計、戸隠山雨乞祈禱料二円、泊り二日分一円五十銭を払い、更に夜立するので夜立案内人賃二十銭と提灯用ローソク代三銭を払い、御神水を抱いて山本坊を立つ。提灯の明りを頼りに案内人と山を下だる。夏とはいえ肌寒い感じする戸隠高原を通り抜け休むことなく長野に入る。長野停車所に着いたのは六時前であった。早速長野―上尾間切符二円九十銭を払い六時五分発の汽車に乗る。
 御神水を一刻も早くと心ははやる。途中高崎にて休み(六銭)、更に熊谷に着き休み(五銭)吹上に入る氷水(二銭)をとる。雨を願う緊急の中に汽車は上尾停車場に着いた。午後三時である。上尾にて川越行乗合馬車に乗り継ぎ一路川越に向かう。たて髪を振りながら馬体は汗して川越に着いたのは四時頃である。馬車代三十銭、橋銭一銭を支払う。
 この時川越にはすでに地元御神水引継者二名が待機していた。御水渡しを済した戸隠帰り二名は急ぎ足で寺山に待つ出迎え者二名に引渡し、寺山組は橋銭六厘を払って上戸(うわど)山王まで早足で行き引渡し山王組は天沼まで急ぎ足で引渡し、天沼(あまぬま)組は藤金に待つ組に引継ぎ最終地点藤金組二名はまっしぐらに脚折に入り三日間に亘(わた)る戸隠山御神水運びは無事に終了したのである。
 この時既に左記の雨乞祈願用品は準備完了していた。

  色紙44枚 55銭 杉皮巾2尺5寸1枚 30銭
  半紙 5帖 75銭 供物菓子 40銭
  あさ 30銭 杉6分板1枚 30銭
  小麦粉 10銭 神酒伊丹1本(坂戸枡屋)5円
  金紙 4枚32銭


 雨乞祈願の準備なり、即日神職宮本・林両氏にて雨乞が行われた。脚折中の熱意と信州戸隠の御神徳で多量のおしめりがあり一同日照りの常苦を忘れ喜んだのであった。
 翌十六日は戸隠山山本坊に御礼のハガキ(一銭)を出し御神徳に感謝し三日間に亘るあわただしい脚折中の動きは平常に戻ったのであった。
 雨乞経費 十六円四十二銭六厘


明治26年「雨乞諸入費記載帳」