群馬県邑楽(おうら)郡板倉町は、群馬県の東南の隅にある。象の鼻のように栃木県と埼玉県の間に突き出ているので、まちがって野洲(栃木県)といわれることが多い。見渡す限りの平坦地で、南に利根川、東に渡良瀬川が流れ、この二つの大河に囲まれたようになっている。その上に、中間にも谷田(やだ)川の流れがあるので、文字通りの水場である。周囲二十一キロもある板倉沼や、洪水が置き忘れたような内沼(御手洗(みたらし)沼)が広大な面積を占めていて、まるで全村が水に浮いたような感じである。いわば陸の孤島ともいえる地形だから、一度大雨に見舞われると、これらの大河巨沼が氾濫(はんらん)し、水の中へ没してしまう危険がある。だから「蛙が小便しても水が出る」というほどに、水に対する警戒心が強いところである。
(雷電神社)
社池は四万余坪あり、傍らに御手洗(みたらし)沼を抱え、境内は老杉老榎がうっそうと昼なお暗く、古い歴史を物語っている。祭神は、炎雷(ほのいかづち)大神・大雷(おおいかづち)大神・別雷(わけいかづち)大神の三神の三柱を主としてまつっている。
板倉雷電神社本殿
〈縁起〉
聖徳太子が東国巡幸の際、天神がここに天下って守護したとか、坂上田村麿が当社の霊験を受けて逆賊平定に成功したとかの縁起を説くが、当初の別当寺だった龍蔵寺の説話によるもので、信憑性(しんぴょうせい)は薄い。史料的には、永仁六年(一二九八)の上野国神名帳に従四位上火雷明神とあるのが当社とすれば、南北朝以前に社殿が建立されていたことになる。
雷電神社の伝承のうち、雷と龍と蛇に関するものを拾うと、
《雷》 金冠玉衣の白翁が、手に笏(しゃく)を執って忽然(こつぜん)として現われ、「雷公が雲間に乗り遷(うつ)り、そのままここに宮造りせり」と歌うと、霹靂(へきれき)雷動して毛毬(けまり)のように見え、雲間に隠れたという。それでここを雲間(はざま)という。
《龍》 聖徳太子の前に、葦毛(あしげ)の駒、龍の駒の二頭が出現した。
御手洗(みたらし)沼から夜毎に神前に龍灯が上った。龍灯とは、水上の隣光が灯のように連って現われることである。
神仏混淆の時代には龍王を祀(まつ)っていた。龍王は龍族の王で、密教では雨を祈る本尊である。
《怪蛇》 貞永元年(一二三二)板倉沼に怪蛇がいた。人を悩ましたので、高僧性信上人に請うて退治した。
<雷電信仰>
「板倉様」の信仰は、群馬県内はもちろん、栃木・埼玉・千葉・東京・神奈川など関東各都県に及ぶ広い信仰圏をもっている。それらの地方からは、太々講(だいだいこう)をつくって代参を送っているが、脚折のように雨乞ばかりするわけではない。
祈願の内容は地域によって異なっている。
《作神》 雷電様は本来は、雷に象徴される火の神であり、水に縁のある龍神でもあるが、今日では作神として雹(ひょう)乱除けのお札を出し、農家、特に麻を作る人々の信仰が篤い。
《雨乞》 水災に関係のない他地方の人にとっては、水場の神だけに、雨をもたらしてくれる神として信仰される。御手洗(みたらし)沼にシメを張り、竹筒に池の水を入れ、祈禱後部落の鎮守の境内にそれを撒(ま)くと、三日以内に雨が降るという。雨乞の水は、途中で休むとその場所で雨が降るから、一気に村へ帰らねばならぬ。だから、遠い所では駅伝方式で持ち運んだという。
《地元》 さすがにこの町では雨乞はしない。それどころか、雷電様の御開帳のとき、龍の図を出すと雨が降るから、龍の顔を紙で蔽うことになっている。板倉地方では、天気まつりの祈りを上る方が多いという。利根川流域の水場でも同じであろう。ここでは、雷や雹(ひょう)や暴風雨から村人を護(まも)ってくれる神である。
《雷電神社の信仰圏》 雷電神社の信仰は、利根川の上流・渡良瀬川・鬼怒川および古利根川・江戸川の流域に多い(②図)。これは、中世以前の利根川水系の姿をかなり忠実に示すものであると同時に、雷電信仰の普及が中世以前にさかのぼることをも意味している。
入間郡鎮座地 脚折の雷電社の他に
1、富士見市鶴馬折戸
2、川越市渋井稲荷神社境内
3、毛呂山町阿諏訪 旧村社 氏子一一八戸
4、毛呂山町滝の入
他
雷電神社代参講(入間郡内)
南古谷、田面沢、日高、南畑、名細、大東、山田、日東
関東地方における雷電神社所在地
板倉雷電神社社殿に施された竜の彫刻
板倉雷電神社社殿に施された竜の彫刻