広い武蔵野台地の一角に中新田ができたのは、古文書(『高篠家伝集』)によると元和9年(1623)のことである。また同書に「慶安2年(1649)神明・稲荷・愛宕(あたご)・山の神4社を勧請(かんじょう)申す。」とあることから、中新田の神社の始まりが約370年前であることがわかる。中新田が、高倉村の内中新田或いは高倉の中新田から、中新田村と改称したのが、慶安に前後する正保の頃であるといわれている(『郡村誌』)ことと考え合わせ、神社創設によって名実共に独立した村としての体裁(ていさい)を整えたのであろう。但(ただ)し、脚折の白鬚神社に残るいくつかの棟札(むなふだ)のうち、享保2年(1717)の棟札までには臑(脚)折・太田ヶ谷・針賣・和田・高倉・大六道(上新田)と並んで小六道(中新田)の名が見られるが、続く享保12年(1727)の棟札には臑折村の名前しか記されていないことから、中新田が神社を勧請しても数十年の間は脚折白鬚神社の氏子であったことが想像される。
御神木大ひの木は、神社創始の当時植付けられたものであろう。往時より、氏神信仰の習わしとしていずれの社にも御神木があった。大ひの木も信仰の習わしから生まれたものと考えられる。
ひの木は杉と異なり成長が遅く、ひの木の大樹としては近在に見ることができない存在である。
昭和55年(1980)計測による御神木の目通り
御神木 目通り2m56cm