県道川越越生線から西に向かう一直線道路は、古来中新田鉄砲道の名で呼ばれている。1,100mを超える道路延長を、江戸時代に夜間提灯(ちょうちん)で竹槍(やり)を立てて見通し測量をして作った道だと、今に語り継がれている。
この道は、大正年代鶴ヶ島第一小学校に通学する中新田児童の重要な通学道であった。豪雪の時は、字中総出で雪掃きをして通学の便を計った住民思い出の道で、現在も、市道9-2号線を知る人は少ないが鉄砲道の名は人々になじまれている。
この道に沿って南側に水路(堀り)がある。中新田字水堀から下新田字水堀にかけては、入梅の季節や大雨の時は水路となり、昭和初期までは流末の浅羽から川魚が上がって来たので中新田で魚採りが出来た時代もあった。下新田分の県道川越越生線の太い土管の中には「ほとけどじょう」が多く住んでいた。ここは学校帰りの児童の遊び場でもあった。
この道が砂利道であった頃は、人の歩く真ん中と荷車の通る2本のわだちの跡の3筋だけは草も生えなかったが、他の部分は道芝が茂り歩きの邪魔になるので、道路の中心部分は年に何回か道芝抜きをして歩きやすくする必要があった。
戦後道路が改装されるまでは、高麗川の河砂利を手車で押して引いた時代が長かった。今では道沿の畑もいつしか民家・店舗・事業所等の立ち並んだ街区となり、かつての面影は失せている。だが鉄砲道の名は今に生きている。