大字上新田字谷頭の杉、ひの木、松、その他雑木の繁茂した底湿地を起点として、水路は東方へ伸び、中新田字大山を経て高倉鼠(ねずみ)橋に至る。水路は更に樹林の中を東へ進み、鼠橋を通り池尻池に流れ込む。鼠橋の下手の昼尚暗い樹林に囲まれた所に幅広くなった場所がある。ここが世上伝えられる「おかねが井戸」で、水の流れている堀を「おかね堀」という。飯盛川はここから発している。今は鼠橋上手の山林は東京電力変電所となり、かつての谷頭も大山も埋め立てられ堀を流れた水も昔物語となっている。
おかねが井戸は、その昔うら若い瞽女(ごぜ)※の「おかね」が、青春の身を沈めた所だと言い伝えられている。若い女性であるため、多くの話題があるだろうと推量されるが、地元及び近郷の人々には不思議にもこれ以上の語りが残っていない。ただ、瞽女のおかねの身投げ談だけである。
おかねが井戸付近は、遠い昔多くの民家があった様である。一説には水質の関係でここを去ったとも伝えられているが、定かでない。未だに民家の跡が山(林地)の呼び名となり残っている。おかねが井戸付近を五右衛門山と言い、五右衛門山の南は七五郎山で、この山の東に栄八山があり、栄八山より更に東に新右衛門山がある。高倉の旧家で山林の持主は、屋敷跡をそこに住んでいた人の名前で呼んでいるのである。
また山芋(いも)掘りの際などには、しばしば縄文時代の土器や石器がこの付近から掘り出され、人々を驚かせている。縄文時代の大遺跡と推定される。更に、おかねが井戸の傍(かたわら)の山林はお寺山と呼ばれ、数基ないし十数基の板碑(青石塔婆)の出土したことが確認されている。恐らくは、中世の寺跡であろう。
おかねが井戸付近は、埋もれた文化財が静かに眠り続けている場所でもある。
※:三味線を弾き歌を歌ったりして、銭を乞い歩いた、盲目の女「盲御前」