5 一本松と一本松駅

 大字中新田にある一本松駅の前身一本松停留所は、越生線全線開通の昭和9年(1934)「ガスリンカー」運行に始まり、無人の期間が長期にわたった。昭和41年(1966)一本松駅となり現在に及んでいる。駅名の一本松は、近くに一本松と呼ばれた所があり、広く人々になじみ深かったので駅名に使われたのであろう。

 停留所時代は、駅に1本の松が植えられていたが、今はない。

 一本松は、江戸時代から六道の辻と言い、下新田村・中新田村・森戸村・厚川村・浅羽村から来た道が一本松で交わり、そこに1本の老松が立ち、その下に地蔵尊が祀られていた。この周辺を一本松と呼び現在に至っている。老松は大正初期の一本松大火で枯れ、次の松は戦後県道改修工事のため切り倒され、地蔵尊も他に移されてしまった。

 明治・大正年代にかけて、一本松はテト馬車の駅でもあった。坂戸の街中央の馬車屋から出るテト馬車は、一本松を通り西へ西へと走り飯能に至った。途中平沢宿に、馬車の替馬をする平沢の馬車屋があった。1日数往復であるが、坂戸~飯能間の重要な乗客輸送の役割を果した。

 又、越生の街から出た馬車は、川角を通り高麗川を渡り一本松を抜け、脚折で替馬をして川越に向った。越生~川越間往復の大切な交通機関の役割を果たしたといえる。

 更に一本松を通って北に道を歩むと、高麗川の掛橋(萱方(かやがた)橋、のちの万年橋)があった。河原に板を並べた掛橋で、大水の時は取り揚げる様に出来ていた。この橋は、明治から大正年代にかけて橋銭をとった掛橋で、大正初期まで歩きの人が5厘・運送(荷馬車)3銭で、大正の末頃は歩きが1銭、運送10銭であった。橋銭は橋板材資金に積立てられていたが、昭和4年(1929)に木橋が完成、同時に橋銭の歴史は閉じた。

 時代の進歩は、ガスリンカーを電車に、テト馬車は乗合自動車から定期バスに、零細な金を取った橋も県道としてコンクリートで夜間照明のある近代的なものになっている。


※:5厘。半銭と言う。2枚で1銭。1銭100枚で1円。