6 梨本宮殿下の宿舎

 坂戸飛行場用地となる昭和15年(1940)以前の大字大塚野新田は、広大な山林に囲まれた戸数8戸の小集落であった。交通機関には恵まれず、陸の孤島とも申すべき感があった。だがそこには地方きっての豪農があり、坂戸銀行頭取になった人もいた。

 大正8年(1919)頃の陸軍秋期大演習の際に、馬橋家の離れ(母屋と別棟の建物)が梨本宮殿下の宿泊所となったことは、有名な話である。坂戸・勝呂・鶴ヶ島地方で選定し、これ以上の候補地がなかったのであろう。鶴ヶ島村は各機関が総力をあげて歓迎したと伝えられている。

 殿下の宿泊は、広大な屋敷内に別棟としてある離れ屋で、木造平屋建・茅葺(かやぶき)・廊下付2部屋の独立家屋であって、洗面所・風呂場・便所が付帯し、極めて高級に整備されていた。庭園には老木・庭石・敷石・石灯籠(いしどうろう)等が配され、近隣に見ることのできない豪荘たるもので、宮殿下宿泊所としてふさわしいものであった。

 宿泊に当り、宮殿下側近の接待役は、関係当局で人選の結果、当時鶴ヶ島第一小学校の教諭が選任された。同教諭の実家では突然の選任に恐縮したが栄誉のため和服一式を新調し奉仕の大役を果したという。その時殿下より記念品と金一封が贈られたという。記念品は家宝として丁重に保存されている。

 昭和15年(1940)坂戸飛行場用地として大塚野新田は買収され、神社・墓石・稗倉(ひえぐら)と共に宮殿下が宿泊した離れも脚折の地に再建されたのであるが、戦後に於ける生活文化の向上によりいつしかその姿を消してしまった。