7 稗倉

 『飢饉日本史』によると、江戸時代の三大飢饉に享保・天明・天保の飢饉がある。そうした飢饉を乗り切る人々の知恵は、稗倉を作り暮しの安定を計った。流通機構の未開な時代、食糧を備蓄する稗倉の存在は高い価値を持っていたのである。

 江戸時代に作られた大塚野新田の稗倉は集落の人達が安心して暮せる様にと、飢饉に備え食糧を備蓄する為のものであった。間口10尺(3m)、奥行13尺(3.9m)、木造平屋建茅葺で、鶴ヶ島唯一のものであった。

 天保の飢饉の痛手を負った弘化3年(1846)に、稗倉は土地の豪農馬橋家の先祖が中心となり大塚野新田で馬橋家の土地に建てられたのである。

 稗倉は毎年穀物の入替をしてきたのだと土地の古老は語っている。

 江戸時代の稗倉も、明治年代に入るや流通機構の進歩とともに本来の使命を果し終え、昭和15年(1940)まで大字共有什器(じゅうき)等の保管場所として使われていたが、坂戸飛行場用地となるや脚折の地に移築されたのであった。その後、地域開発に伴う生活構造の大きい変化により、いつしか飢饉の言葉さえ遠い過去のものとなり、建物もその姿を消してしまった。

 江戸時代の貴重な文化遺産が惜しまれる。