大正時代の初頭、越生の街から出たテト馬車は、川角を経て高麗川の木橋万年橋を渡り、一本松で鶴ヶ島村に入り川越県道を下新田、脚折才道木、藤金を経て名細(なぐわし)村に入り川越の街に向って走った。御者(ぎょしゃ)が手綱を操り、駅近くではラッパを「テートウテートウ」と吹き合図としたことからこの名が付けられたのであろう。
才道木には、越生から走って来た馬、川越から走って来た馬の交替する駅があった。通称馬車屋と呼ばれ、長屋に交代馬を数頭つないで置き継馬としたのである。才道木の県道沿(現、旧県道と新県道の分岐点手前)に、飲食のできる柏屋があり、駄菓子類を売ったりスマ(麦へんに皮)湯※を売ったりする馬方宿、馬立場としての役割を果たしていた。才道木は越生~川越の中間地点で、汗ビッショリになって走ってきた馬を休養している馬と交替する重要な場所であると共に、乗降客の駅でもあった。
当時、村役場では、国税・県税の納入にはここから馬車に乗り川越の第八十五銀行と武州銀行に行ったと言う。自転車ででも行けたのであるが、村の公金を持って行くので安全対策上馬車利用が役場の方針であった、と当時収入役をしていた古老は語っている。
この時代、川越~越生県道は砂利道で、才道木の坂(現保健センター東側)と長竹の坂は難所とされていたと言われる。
車がなくて歩きですべてすました時代、馬車利用は豪華なものと一般から見られていた。今では、観光地には馬車を見かけるが、交通機関としての馬車はほとんど見ることが出来なくなった。
※:スマ(麦へんに皮)湯 馬の食事。馬方宿、馬立場では、馬方はうどんや飯等を食べて休息と食事をするが、この時つながれた馬は大釜で沸かした湯を容器に入れその中に適量の麦糠(ぬか)(麦搗きの時出る糠)またはスマ(麦へんに皮)(小麦を製粉する時出る皮の部分。極小量の粉が付いている。)を入れたものを馬に飲ませる。麦糠よりスマ(麦へんに皮)の方が栄養もあり高価である。特にうどんの茄(ゆで)湯にスマ(麦へんに皮)を入れたものは馬が好んで飲んだ。
営業する者は毎日のことなので常宿を決めて立寄ったものである。そこでは人馬ともに飲食代を支払う。