昭和年代の初期、鶴ヶ島村には鉄道の駅が3つあった。昭和7年(1932)4月10日上広谷に鶴ヶ島駅が開設され、続いて昭和9年(1934)12月16日中新田に一本松駅、上新田に大家駅が設置され、鶴ヶ島村には駅が3つ出来、この当時地方農村として極めて珍しい事態であった。こうした時代もあったが、時代の推移で今鶴ヶ島の人達に忘れられようとしていることの1つに、上新田にあった大家駅がある。
この駅は上新田にあったが、近くに大家村森戸の集落や大家村役場があった関係と、昭和7年(1932)2月17日坂戸~高麗川間砂利運搬用貨物線(後に客車)敷設に関し大家村が中心的役割を果した関係で、昭和9年(1934)駅設置に当っては村名の大家が駅名となったのである。
大家駅はそれから昭和20年(1945)12月10日まで続いた。
昭和11年(1936)2月28日、現在の西大家駅が開設されたのであるが、この時は大家駅(鶴ヶ島村上新田)があり、その西に当るので西大家の名が付けられている。
戦後大家駅は至近距離に西大家駅があるので廃されたのである。戦時中大家村・鶴ヶ島村の村民が、出征軍人を幟(のぼり)や日の丸で送り声高らかに天まで届けと万歳三唱をした両村民想い出の駅も消え、人々に忘れ去られようとしている。
鶴ヶ島の上新田にあった大家駅、それは遠い過去のものとなってしまった。