10 鎌倉街道

 建久3年(1192)、頼朝が征夷大将軍となり鎌倉幕府を開いたのは今から830余年前のことである。鎌倉に政治の中心が移り、諸国から鎌倉に通じる要路鎌倉街道は、軍政上極めて重要な意味を持っていた。鎌倉街道はこうした時代に作られたものである。

 所沢・入間川・柏原・女影(おなかげ)・駒寺野新田・町屋・森戸を経て苦林(にがばやし)・今宿・大蔵・菅谷へと伸びる街道沿には古戦場跡が残っている。当時鎌倉武士や土豪の士がこの街道を往来したことであろう。

 坂戸市森戸の国渭地祗(くにいちぎ)神社の西方田利という所を、南に坂を上り、坂戸~飯能県道を横切る辺から深い堀割りとなり鶴ヶ島市大字町屋字持(じ)家に入る。この直線上の堀割は鎌倉街道の跡である。幅5m90cm、深さ2m13cm、延長92m50cmあり、今は下水道の役目を果し、往時より浅くなっていることであろう。

 この延長は市道57号線を横切り更に直線状に伸びているが、いつの頃か堀割りの半分が道路となり、残りの半分が旧街道の名残りを留めているのみである。

 幅2m60cm、深さ65cm、直線部分延長207mのこの堀割りは、町屋分が更に曲りながら伸びて駒寺野新田に入る。

 町屋の家並みはこの街道に沿ってある。

 古文書『新編武蔵風土記稿』の四日市場村の項に「東は森戸村と古鎌倉街道を界し南は町屋村と限り」とあり、鎌倉街道は四日市場村との境であるとともに森戸村との境ででもある部分がある。鎌倉街道筋も今は地域開発が進み往時の面影を残すところも極めて少ない。そうした中で、町屋に残る街道跡は貴重な残跡である。


※:四日市場村 坂戸市四日市場。町屋の西北に接する。

  森戸村・坂戸市森戸。町屋の北に接す。