明治22年(1889)に町村制が布かれた時、江戸時代からの脚折村・高倉村・下新田村・中新田村・上新田村・町屋村・三ツ木村・太田ヶ谷村・藤金村・上広谷村・五味ヶ谷村・大塚野新田・戸宮村・三ツ木新田の12か村と2新田が1つになり鶴ヶ島村ができた。この時昔からの村々は大字となったのである。
村名『鶴ヶ島』の名は、大字脚折の北部にある字鶴ヶ島から出ている。ここは遠い昔広い沼地の中に1つの島(小高い所)があった。それは水田の中の島で、そこに男松、女松が生えており、この相生(あいおい)の松に鶴が巣ごもり、縁起のよいことが重なったことから鶴ヶ島と名付けられ、それが村名発祥の地となったのだと伝えられている。
この島の老松は、昭和15年(1940)頃耕地の枯草焼の時野火のため松が枯れ、若松に植替えられているのが現在のものである。今は、脚折1丁目の区画整理地内で周囲が盛土され、松はかさ上げされている。そして鶴ヶ島市により史跡指定され保存措置がなされている。
相生の松に鶴が巣ごもりしたのは「上杉家関東管領の節」と伝えられている。今から400年以上も遠い音のことである。その後、明治8年(1875)、校名を鶴ヶ島学校と名付けられて鶴ヶ島の近代教育は産声を上げ、続いて村名にも鶴ヶ島の名称は採り上げられることとなったのである。
昭和41年(1966)町制を施行し、その時町章として相生の松に巣ごもったと言われる瑞祥(ずいしょう)の鶴をあしらったデザインが採用された。これは鶴ヶ島の繁栄と発展のシンボルと見なされた。実際急変する経済・社会構成のただ中で、鶴ヶ島の発展は飛躍的であったといえよう。村名が鶴ヶ島となった時の人口は3,231人、戸数は569戸であった。令和5年(2023)現在、人口は約20倍、戸数にすると約10倍の増加を示している。また1校の鶴ヶ島学校が今は小中学校合わせて13校となり、県立高等学校も市内に所在している。
関越自動車道鶴ヶ島インターチェンジの傍で、長い歴史の重みを受け継いで、鶴ヶ島の相生の松は、一層青々とした葉を繁らせるべく、より深く広く根を張ろうとしている。ここには、時代の先端と古い伝統という新旧の調和が、鮮やかなコントラストで形作られていると言えよう。