今からおよそ140年前の明治17年(1884)、脚折村・高倉村・下新田村・中新田村・上新田村・町屋村・三ツ木村・太田ヶ谷村・藤金村・上広谷村・五味ヶ谷村・大塚野新田・戸宮村・三ツ木新田が連合して上広谷聯合(れんごう)戸長役場がおかれた。この時、鶴ヶ島学校は脚折村善能寺を本校とし、上広谷村正音寺を分教室に、また上新田村長福寺を分教室として各村々の教育はなされていた。
明治22年(1889)新憲法が発布され、同時に町村制が施行された。それによって、前記各村は1つになり鶴ヶ島が出来るとともに、上新田長福寺の分教室は本校に合併されることとなった。そのため、西部地区の教育施設は空白となったのである。
上新田の呑龍様として知られる長福寺は、西部地区子弟教育の場として重大な役割を持っていたが、行政的措置による分教室廃止は地区民に計り知れない傷跡を残したのであった。分教室で教育を受けていた生徒は、止むなく当時の大家村森戸宿中央にあった大家学校に通学するという変則的な事態を招いたのである。
鶴ヶ島村は、行政的配慮から、教育の場を閉ざされた大字町屋・大字上新田・大字中新田地区生徒に限り、村の学校に通学する者に対し通学奨励金交付の規定を制定し、町屋を最高、上新田がその次、中新田を最低とした3段階格差をつけ交付措置をとった。だが、大家学校へ通学する生徒数は大きい変化を見せず、後に増加の一途を辿(たど)り、かくして昭和24年(1949)に60年間にわたる西部地区教育施設の空白が起因となり、西部地区民は鶴ヶ島村を離れ大家村になろうとする分村問題が突発したのであった。鶴ヶ島村は有史以来の一大不祥事態を迎えたのであった。多くの日時と経費をかけて和解策につき腐心し、最終的に西部地区生徒が安心して通学できるような通学道兼行政道路の新設整備と、住民の集合できる施設(公民館)の即時開設等で、分村問題は和解し幕を閉じたのである。
しかしその後も大家学校通学者は減少せず遂に昭和40年代に入り大家小学校児童の3分の1が西部地区出身者となってしまった。このことは、両市町教育の根幹にふれる問題となり、永年のゆがめられた教育姿勢は限界点に達し、鶴ヶ島町は昭和53年(1978)大字上新田地区に新町小学校を開校し、90年間にわたる大家学校依存の教育行政と教育施設の空白は解消されたのであった。
明治教育の鶴ヶ島学校分教室、そして戦後教育民主化の進む中での分村問題等、鶴ヶ島教育の1頁として分教室跡は極めて重要な意義を持っている場所である。