往時、川越街道(現県道川越越生線)長竹の坂は、藤金の民家を離れると高台となり、ここを下って長竹に入ると低湿地となり、坂の上の台地まで約160mの坂であった。
この街道は、藤金を出ると目前に松・杉・雑木の繁茂する高台となり、坂を下ると低い地盤でしかも湿地で樹木よりも茅(かや)・葺(あし)の密生する場所に移り、ここを通り抜けると急な上り坂となって台地に出る。更に進むと、旧名細村天沼新田の民家がある。藤金の民家から天沼新田の民家までの約1,150mの間には民家はなく、台地には杉・ひの木・松・雑木の混在した樹林の間からもれる陽が長く影を落し、昼でもうす暗い感じで1人では淋しい砂利道であった。長竹坂は、藤金へも天沼新田へも歩く時代としては距離があり、1人歩きには不安感のある街道であった。大正時代、テト馬車の難所であったとも伝えられている。
明治16年(1883)9月11日午前11時頃、川越の街から歩きで越生の絹市に絹買いに通った問屋の番頭・小僧(15、6才)の連れが、長竹坂を通りかかった時、仕入金目あての悪者に番頭が刺殺され小僧が驚いて天沼新田の民家に駆け込んだという絹買殺しの実話は、今も地元の人々の口にのぼることがある。後日、坂の上に供養塔が立てられたが、戦後開発が進められ現在は密集する人家の中に供養塔は埋没してしまった。
往時、この付近に寺院(長竹山長竜寺)があったと『風土記』等に伝えられているが、詳かではない。