19 ひきわり道

 江戸時代から明治にかけての庶民の経済生活には、容易ならざるものがあった。従って、しばしば生活の手段として大切にしていた着物・羽織や襦袢(じゅばん)・帯などを、紺の風呂敷に包み小脇に抱えて人目をはばかって質屋(森戸宿中央)に行き、これを質入れして何がしかの金を借りたものである。その金で穀屋(質屋前大通りを越え南側)に行き挽割(ひきわり)を買い風呂敷包にして背負い、再び人目につかぬ様にと森戸宿裏路(家の裏通り)を通って帰った明治時代の裏街道が、挽割道の名で今に語り継がれている。ひきわり道こそ、当時に於ける庶民の暮しを象徴している生活道であった。

 森戸宿の裏路を通り、現大家公民館前の道を中新田に向い越生線線路南から東に向って入る六尺芝道で、今は廃道の様になっている。ここから、中新田神明社裏を通り東へ民家の裏山沿いに道を更に東へ行くと、南北に通じる道路に交差する。この道がひきわり道である。

 道沿には民家の北裏、屋敷林が連なり、稀でなくては人に出合う事のない道である。この道を抜け出て更に東へ伸びる道とここから南(北)へ向う道とあり、両方の道とも民家の東脇かまたは裏道を通る様に道が伸びている。森戸宿裏路からここまで、民家の前は1軒も通らなくて往復できる道であった。芝道は人の通る真中だけ細く長い1本の筋が出来ていたと、古老は若い時代の思い出を語っていた。

 この時代、質入れや挽割買いはお内儀さんの役割であったという。また、挽割飯常食時代でも、吾が子の学校弁当だけは、挽割の中に布袋に弁当用の米を入れ一緒に炊き、特別に作ったものであった。

 当時は容量取引時代で、穀屋は1合、5合、1升の枡を使って計り売りした。計った時は正量でも、枡に入れる時の角度、早さ更に枡かき棒(枡を平らにする丸棒)の早さ、力の入れ方によって、家に来て計ると誤差はつき物であった。商売上手な穀屋の前では、この時代消費者は常に不利な立場にあった、と言えよう。