20 呑龍様と薬師様

 大字上新田家並みの下、奥まった場所に古寺、長福寺がある。この寺には呑龍(どんりゅう)様と薬師様が祀られている。


   〈薬師様〉

 『新編武蔵風土記稿』に「瑠璃山と号す、新義真言宗中山村智観寺の末なり、本尊薬師を安ず」とある。薬師は、中武蔵七十二薬師の1つとして240余年前の安永5年(1776)2月に札番と御詠歌がつくり定められている。

   7番上新田長福寺  打つ波が 来ん夜も長き

              福とねぎことかけよ 寺の御本尊

 ここは市内5薬師の1つで、他の4薬師は

   8番高倉高福寺   十あまり 二つとたてし

               誓には高倉経なん あだし仏に

   11番脚折善能寺   諸人の 身のいたつきも

               山の名も安く養へ 瑠璃の恵みに

              (善能寺の山号は安養山)

   12番藤金法昌寺   紫の 雲かと見れば 恵みある

               瑠璃のお寺に かかるふじかね

   13番上広谷正音寺  村の名の 広きや瑠璃の誓かな

               御代の仏は いづれ乍らも

 上新田の薬師様は、遠く江戸時代から明治時代へと栄え、大正年代まで続いた。特に目の悪い人達の信仰があつく、穴あき石を供え目が通る様にと祈念した時代もあったという。

 薬師様は寅年には御開帳(12年目)があり、この年は薬師の精進者達が中武蔵七十二ヶ所廻りをなし、薬師様の門前が賑(にぎわ)うと伝えられている。盛んな時代には、長福寺大門前に2階建のお茶屋がありそこで飲食できたという。今はその屋敷跡が空地としてかつての名残りをとどめているだけである。


   〈呑龍様〉

 長福寺に祀られている呑龍様は、子育て呑龍として世に知られていた。人々は、無病息災と無事成長を願い吾が子を呑龍上人の御弟子としての呑龍子にした。昭和初期までは、近くは上新田の呑龍様遠くは群馬太田の呑龍様にまで出かけてひたすら子の無事成長を祈った。

 この時代には呑龍講も作られ、縁日には、代参人が遠くから来たという。毎年8月8日が縁日で、長福寺は近郷近在の参拝客で賑い仏前には数多くの灯明が燃え、打ちならす太鼓の音があたりに響いた。護摩(ごま)札を受けた人々は、門前に並んだ露店に立寄り買物をして帰った。明治年代露店商の帳元をした土地の小川家に残る記帳によると、縁日に最高の出店は60店で、かき氷屋の店が7店もあった様である。またこの時代は、縁日には打上花火や書生芝居や浪花節の余興が盛んであったという。

 この寺の本堂右手に小高い塚があり、その頂上の古木の下に愛宕将軍地蔵が祀られている。280余年前の元文年代、上新田村・中新田村で建立したものである。(第36編「愛宕将軍地蔵」を参照)


追記

 平成14年(2002)に新田土地区画整理事業により、長福寺本堂は新築され、愛宕将軍地蔵尊は長福寺と向かい合いの南側に移動されました。

 そして地名は新町4丁目と変更されました。