22 河岸街道

 古文書『風土記』の上新田村川越街道の条に「村の北方森戸村境より、南方駒寺野新田界に至る。長六町五十五間幅四間」とある。

 上新田村の北森戸村に接する所から南へ街道は伸び、駒寺野新田、森戸新田村を経て日光街道(県道入間~熊谷線)を突切りさらに道は伸びて笠幡村に入り、飯能~川越街道に突当る。この街道は、江戸時代上新田村、町屋村、中新田村、森戸村、四日市場村等の人達が川越へと上る重要な街道で、河岸街道の名で呼ばれ今に至っている。古文書の川越街道の名より、河岸街道の名の方が今も語り継がれて生きている。

 この街道沿の駒寺野新田村3戸の内に商いをする家が1戸あり、街道を旅する人の小休みする家でもあった。

 遠い者、土地の人々が川越(河岸)に行く重要街道で、川越河岸から江戸にいった時代が偲ばれる街道である。

 この街道の延長線上の川越にも、河岸街道の名が今も残っている。川越市野田の野田神社の近くにある道がそれで、このことからも当時の人々の生活道としての河岸街道の役割の大きさが推察できるだろう。