26 川崎大明神の石祠

 大字高倉の三角原に陣屋跡がある。ここを村人は陣屋原と呼んできた。徳川時代、川崎平右衛門定孝が武蔵国の新田開発に功績をあげて後世に名を残したところである。

 定孝は、この地方の代官として荒地を開墾し、台地の作物として「はとむぎ」を奨励するなどして、農民の経済的繁栄のために力をつくした。このことは、彼の出身が農民であったということと、深い関わりを持つと考えられる。時の幕府の信任も極めて篤(あつ)かったと伝えられている。

 陣屋跡は、市道438号線沿にあり、長方形の土塁に囲まれている。鶴ヶ島市指定史跡として、川崎平右衛門定孝の事績が詳細にわたって記されており、訪れる人々にその偉大な業績を語りかけている。奥の方には、今から約220年前に建てられた石の小祠がある。

 祠(ほこら)は、総高3尺4寸(約1m)幅9寸2分(28cm)あり、以下の文字が刻まれている。

   正面 川崎大明神

   向って右側面 武蔵野御救氏神(おすくいうじがみ)

   向って左側面 寛政十戊午歳六月六日

            高倉村

            同新田 持

   裏面 造立助力  森戸新田

            臑折新田

            下新田

            下高萩新田

            町屋新田

            三ツ木新田

 その昔、どんなに定孝が関係各村の開発に力を尽したか、よく窺うことができる。

 「川崎大明神」「武蔵野御救氏神」とまでに追慕して、祠造立のため、高倉村、高倉新田の人々に、関係6ヶ村の人々が力を貸した事は、定孝の残した大きい功績を物語っている。

 坂戸市関間新田の鎮守境内にも、川崎大明神の石碑が建てられている。高さ1m11cmの碑面に「川崎大明神」とあり、裏面に「惣村中」及び発起人2名の名が記されている。嘉永6年、高倉の祠より半世紀程後に建てられたものである。