28 日光街道

 『郡村誌』高倉村道路の条に「日光街道 村の南方森戸新田界より東方臑折村界に至る、長十七町三十間幅四間松杉の並木あり」と記されている。国道407号の並木道は、遠い昔から日光街道の名で世に知られ、街道筋の松杉の老樹は寛永年間の植付であると言われる。昔八王子で半農半武であった千人同心(武田家の遺臣)が、日光東照宮を守るため千人隊として街道を往来したので、別の名を千人同心街道ともいわれる。

 戦前までの街道沿は、老樹が密生し昼尚暗い有様であった。昭和18年(1943)、鶴ヶ島中学校西方地点で日活映画が時代劇を撮影したことがあった。エッサ、ホッサのお駕籠の場面は江戸時代にふさわしい街道風景で、筆者も目撃した1人である。樹齢を重ねた松・杉の下には雑木が密生し、あたりの畑、民家等は街道から見通せない程であった。

 戦後にあった大型台風で、5・60本の老樹が折損または倒伏し、そのため処分された。この時点から街道並木の様相は大きく変容してしまったのである。

 またこの街道の松には、高さ2m位から下、いずれの松にもV字形の幾つかの切り傷がついている。これは、戦時中燃料用資源として松根油の採取が盛んであった頃、松ヤニ取りをした跡である。戦争の傷跡とも申すべきものである。

 今は点々として残った老樹が歴史の面影を残し、かつての名のある武士やお参りする旅人が往来したであろう街道も、近代的道路としての性能を備えたものと変った。この街道沿に、史跡陣屋跡、川崎大明神(武蔵野開拓恩人)の石碑が立ち、標示板が詳細を語っている。

 また、この街道と川越~越生県道の交わる才道木十字路に、高さ73cmの石の道しるべが立っていた。

  南 たかはざ 八王子   東 川こえ 江戸

  北 さ可登  日光    西 をこせ 慈光

 今から190年前、文政の頃立てたもので、南北に八王子と日光とを結ぶ往還であることがよくわかる。

 この街道を北に進み、坂戸市上吉田(北坂戸団地北方)に旧日光街道の一部が残っている。今はそこに旧日光街道の碑(高さ2m余)が立てられ、郷土の歴史として保存されている。

 旧街道筋の多くを残す鶴ヶ島市の日光街道は、生きている歴史であろう。