『風土記』上新田村の項に、「下新田村稲荷の社地における石地蔵の銘に元禄十三庚辰六月二十四日武州高麗郡高倉新田村とあり、これにより按にこの三新田は其の昔高倉村にぞくせし原野なりしを明暦の頃新墾して三村に分ちしものなるべしと載す」と記されている。3新田は上新田村・中新田村・下新田村を示すものであろう。
この風土記にある石像が、下新田氏神、羽折稲荷神社にある。神社の神殿西裏樹陰の下に、高さ4尺3寸(約1m30cm)幅1尺5寸(約45cm)の石像が4寸(12cm)の台座の上に建っている。今より320年前、元禄の年代に建立されたものである。長い歳月にわたり風雨に晒され、判読至難の部分もあるが、極めて保存状況はよい。
石像正面向って右 奉建立愛宕山大権現本池[ ]
石像正面向って左 元禄十三庚辰六月二十四日
武州高麗郡高倉下新田村別當明智坊
台座 向って右 惣旦那[ ]
台座 向って左 精進衆拾人
石像と台座にはこの様に記されている。
格式のあった明智坊を初め熱心な大権現の信仰者拾人が、大権現の御加護により下新田村の繁栄と一家の安泰を祈願してここに建立したものである。
また、ここより西、川越街道沿に地蔵尊が祀られている。明治から大正年代、地蔵を信仰する者が多く盛んであった時代は、村芝居の舞台がかかり縁日には香が絶えなかっという。今も尊像に願いをこめて「ずきん」「よだれがけ」「たすき」が幾重にも掛けられている。今から290年前の享保12年(1727)2月吉日の建立で、「日待供養施主十一人武刕(ぶしゅう)高麗郡下新田村」と記されている。「修繕大正五年十月十三日」の字も見られる。