32 下新田の農民芸能

 戦前まで、典型的な純農村地帯としての鶴ヶ島は、むら人の慰安娯楽に恵まれず、人々は農耕一途に日の出前から夕闇迫るまで働き更に夜なべするという、変化に乏しい日々を送っていた。これが一般的な農民生活であった。そうした環境の中で、大正から昭和にかけて下新田では、自然発生的に、農民芸能が青年たちの間に普及していった。1日の農作業を終えて、夜間慰安と娯楽のために盛んに芸能活動を行ったのである。

 当時むらで農民芸能の盛んであったところは、西の下新田、東の戸宮(現坂戸市戸宮)であった。

 今から100余年前大正の頃は、素人芝居を頼まれて村内の地蔵様、呑龍様、薬師様等の縁日には舞台の上で素人演芸(鑑札を受けなかったので素人)をなし、他の町村にまで出かけたと、当時中心的役割を果たした翁は語っている。

 当時の出し物(得意なもの)は

   八木節―源太踊り

   くどき節―踊りは合せ甚句

   浪花節(浪曲)―「忠臣蔵大石蔵之助」「乃木将軍墓参の悲劇」

等であった。浪花節は師匠から芸名をもらった者もある。

   芸名  東家竜雲、東家楽次、東家松風

 これらの人達は、川越押川屋座長にたのまれ興行助演をしたという。

 今、芸達者なかつての青年達は、老境にも負けず農民芸能を若い世代に生かそうと努めている。それに応えて、保存会も結成され、下新田の農民芸能は前の世代から次の世代へと、そして再に次代へと受け継がれようとしている。

 当時鶴ヶ島を西から東へと13のむらを歌った合せ甚句がある。


  鶴ヶ島村弥次喜多道中   作者 東家松風

 西でサーイ高いのが駿河の富士よ

 東で高いのが筑波の山よ

 あいに挾んで武蔵の国よ

 国は武蔵で入間の郡(こおり)

 入間郡は鶴ヶ島のむらよ

 鶴ヶ島にて西方にあたる

 町屋むらとて住みよい所

 このや町屋で仕度を致し

 腰に煙草入れ手に杖もって

 わらじばきにて仕度ができた

 仕度ととのえ 吾が家をあとに

 吾が家あとにと旅立ちまする

 行けば程なく上新田よ

 上の新田ブラブラゆけば

 着いた所が中新田よ

 中を流れる水堀の水も

 下に流れて下新田よ

 ここの所で一息休み

 前を眺めりゃ高倉のむらよ

 高い高倉 桑の原越えて

 高い所を無理して上がりゃ

 旅の疲れでその脚折よ

 脚が折れたよ 心配するな

 そばにゃ三ツ木が待ちうけまする

 やっと三ツ木で身接いでもらい

 治療代をと言われた時に

 今日はお金は一文無しだ

 金のないときゃ太田ヶ谷様と

 ここもそのまま立出でまする

 行けば間も無く上広谷にて

 上の広谷で藤金打てば

 鐘の合図でおかさん達が

 作る料理が五つの味よ

 味に豊かな五味ヶ谷のむらで

 並ぶ料理のその味のよさ

 食事終りて一服つけて

 戸宮開けばお経の声に

 あれはどこよと尋ねたなれば

 信仰で名代の大塚野新田で

 御嶽神社に参拝いたし

 むらの旅路もこの度にとめて

 もとの町屋で月日を送る

     ヤーンレー 

  下新田口説   作者 東家松風

 国はサーイ武蔵は入間の郡(こおり)

 越生街道や飯能街道

 二本道路の四辻にあたる

 鶴ヶ島なる下新田よ

 このや村には自慢がござる

 女殿下でおやじが番頭

 おやじ飯炊け掃除もしとけ

 暇があったらお皿も洗い

 坊が泣いたらおむつまで頼む

 私しゃこれからおどりのけいこ

 踊り続けたその甲斐あって

 今じゃ踊りも上手になれて

 花に例えて申するならば

 立てば芍薬(しゃくやく)座るなら牡丹

 踊る姿が姫百合の花

 家で留守する御主人様

 あとを片付け掃除も終り

 明日の食事の仕度もできて

 おむつ取替坊やを背負い

 雨戸引よせ鍵までかけて

 行けばまもなく踊りの場所よ

 これさ母さん もし母さんよ

 坊が泣きますお乳をくれて

 何度呼べども耳にも入れず

 踊るけいこで無我夢中

 これさ母さん ようききゃしゃんせ

 踊りよせとは言わないけれど

 せめてこの子が乳離までも

 やめておくれよ踊りのけいこ

 おれの意見で止まないなれば

 思いつめてかもうこれまでと

 村の鎮守に願かけまする

 一にや市場で御内裏様よ

 二には二階で白山様よ

 三じゃ坂戸で山王様よ

 四には下新田でお稲荷様よ

 五つ今宿じゃ天王様よ

 六つ村々氏神様よ

 七つ中新田の御神明様よ

 八つ八幡の八幡様よ

 九つ小谷田の石尊様よ

 十じゃ東京の靖国神社

 かけたごりよ願もし叫わねば

 裏の高麗川にその身を投げて

 三十三尋の大蛇となりて

 下新田をば巻き倒す

     ヤーンレー