江戸時代、浅羽村の「でんとう坊塚」より下新田村経塚を経て、街道はほぼ直線的に西に向い、高倉村と中新田村の間を抜けて上新田村南部から駒寺野新田へと伸び飯能に至る。この街道は、飯能街道の名で人々になじまれて現在に至っている。
慶応4年(1868)に、上野で敗れた彰義隊が飯能にたてこもり飯能戦争を起した時、その敗残兵が飯能街道を下り坂戸に向う途中、疲労した兵が背負った大刀を高倉村裏で捨てたという話が、今も高倉に語り継がれている。疲労の極に達した兵が、身軽になって坂戸へ向ったことであろう。
飯能街道筋、大字中新田字子ノ神三叉路に、今から200余年前の文政3年(1820)に建てられた馬頭観世音がある。馬頭尊は高さ68cm、幅28.5cmあり、高さ36cmの台座の上に乗っている。馬頭の下に「馬頭観世音」と記され、側面に「武刕高麗郡高倉村、願主小川忠七 姉きよ」とあり、その脇に「全郡中新田村地所」の文字が見られる。
この台座正面に「右川ごへ」「左りさかど」向って右横に「右おごせ」「左りはんのう」と記された道しるべがある。飯能街道の道しるべとしては、鶴ヶ島ではここにあるだけである。
往時の飯能街道も、農村近代化の進行により、原況が漸次変容しつつある。そうした中にあって、下新田分の街道筋はよく原形をとどめ、古時の面影を今に伝える貴重な存在である。