37 路傍の野仏

 江戸時代の昔から、中新田村鉄砲道と高倉村・下新田村・上新田村・森戸村から来る道との交叉する所に、小高い塚があった。塚には6寸(18cm)の台座に3尺3寸(1m)の地蔵菩薩が祀られていた。(現在道路改修で塚は削平され地蔵尊は道端に移動。)明治・大正年代から昭和へと長い歳月の間風雨に晒され、そのため磨滅した部分も多く、判読困難な部位もあるが、今から310年前の宝永年代の建立である。

 上新田長福寺跡にある愛宕将軍地蔵の碑面には、中新田高篠一族6名の名が記されている。これは280年前の元文年代に建立されたものである。地蔵菩薩は、中新田開祖高篠隼人及びその子3名(3戸)が建てた高篠家一族の供養塔であるという。

 明治から大正年代にかけて村中の子供の遊び場で、台座などには蓬(よもぎ)を石で叩き餅草搗(つき)をして遊んだ跡が、3cmの深い穴となり数ヶ所見られる。また砂利道で、地蔵尊の頭を使って砲丸投げをして遊んだので、顔が磨滅して前か後か区別がつかない程になっている。

 村中の子供が地蔵菩薩によって成長したといっても過言でなかろう。

 昭和初期までは、亡き幼児が三途の河原で迷わない様地蔵菩薩に導いてもらおうと、百地蔵参りの紙位牌が張られたり、赤いズキン・よだれ掛け・赤いたすき等が掛けられていたが、時が移り世も変り、今では見られなくなってしまった。

 江戸時代から今にいたるまで、野に立って村内安全を願いつつ人々を見守ってくれたこの石地蔵は、中新田最古の野仏である。