39 影絵

 映像による娯楽の極めて少ない明治20年頃、義太夫により影絵を語ることが流行した。大字脚折字北口の大野家先代と、字池の台の池野家先代と組んで行ったという。

 大野は、当時熊谷の義太夫師匠から芸名の太夫名をもらった程の芸達者であり、池野は絵師に書いてもらった絵を写す影絵師であった。池野家に現存する『明治二十年荷物判取帳』(道具を渡した証となる判取りの帳面)によれば、現在の東松山市・比企郡・入間郡・坂戸市・飯能市・川越市等、極めて広い範囲にわたり影絵をして回ったようである。後述する影絵の題名からは、当時のこの地方の、大衆文化の傾向の一端を窺うことができよう。

 影絵は、硝子に書いた絵をスライドとして映像にし、義太夫がその説明的役割(後の活動写真弁士)を果たしたものである。絵硝子は縦・横2寸(6cm)位の割り硝子で、絵は千葉の方から絵師を頼み泊り込みで書いてもらったものだという。大概は4枚つなぎであるが、二見ヶ浦風景のような名勝地紹介画は長尺物(幅6cm長さ30cm)となっている。

 影絵の題名としては、

    番町皿屋敷 はだかよめ

    石川五右衛門 福徳屋

    関取千両のぼり 小平次ごろしアサカ湯の場

    小栗判官  阿波の巡礼

            以下省略

等があり、その数はかなりにのぼっている。

 また、当時回った場所は、『荷物判取帳』によれば以下の通りである。

    玉川 川島 千手堂 瀬戸 唐子

    高坂 岩殿 吹塚 笠縫 葛貫

    小ヶ谷 的場 笠幡 小杉 新堀

    大塚 石井 浅羽 五味ヶ谷 以下省略

 映像の中にその庶民性を大きく生かして、影絵は、当時の人々の娯楽に大きく貢献したものと思われる。