大字脚折字万神ヶ谷戸から北へ、字宮田で飯盛川を渡り坂戸の宿に入る道は、古来より市道として村人から親しまれてきた。
この道は、脚折から更に南へ伸びて藤金を経て太田ヶ谷に入り、明治年代まで重要な暮しの道としての役割を果たしていたのであった。明治・大正年代には、道幅が7尺(2.1m)あり、当時としては中々広い道であったといえよう。
元来は、市道は村民が栗生田村の七日市場へ通う道であったと思われる。また、坂戸宿は地方生産物の集散地で、2の日、6の日、9の日が市日と定められていた。市道を使って、脚折の人々は、これら坂戸の市に向けて馬の背に穀類を括りつけて運んだものである。
運送車(馬の引く大型荷車)が出始めた頃は、馬で運ぶ仕事がとられるという考えから、飯盛川に掛かる宮田橋を斜に掛けて、運送車が通りにくいようにしたと今に伝えられている。
馬の背中で荷を運んだ市道も、話題の宮田橋も、昭和初期の経済恐慌の時不況打開のため救農土木事業の対象となり、鶴ヶ島村で土木費5,000円を計上し7尺(2.1m)の道は12尺(3.6m)に拡げられ、車両の通行も可能となった。当時の用地買上価格は坪(3.3m2)あたり1円で、工事人件費は1日50銭の高賃金であった。畑の草むしりが1日30銭の時代なので、救農の目的は達せられたであろう。
市道改良工事後は、農産物出価、肥料、呉服、日用品の買入れに新たな役割を持つ様に変っていった。かつて、坂戸宿へ市日に穀を運んだり、繭の集荷地として荷出しした市道は、時代と共に通勤・通学・生活用道に変り、それが更に脚折北部区画整理により新しい街路計画のもとに埋没してしまった。
この市道の延長線上藤金では、この道を市街道と呼んでいる。