遠い昔から五味ヶ谷の人々に、松平様のお倉跡の存在が語り継がれている。お倉跡は、元の第二小学校庭の西隅にあった。明治初期には篠の密生した荒れた藪であったが、明治33年(1900)上広谷の正音寺にあった第二小学校(校舎なし)を五味ヶ谷の地に新築するにあたり、お倉跡も敷地の一部となり埋没してしまったのである。
記録によると新築された第二小学校校舎は左記の通りである。
起工 明治33年(1900)1月
落成 同 10月
間口 16間半(約30m)
奥行 4間半(約8m)
延 74坪2合5勺(245m2)
敷地 725坪(24a)
用地買入価格 217円50銭
建築費 1,817円
付 「本校は設備完全他の模範となる旨を以って埼玉県より賞賜せらる」
とあり、建築坪(3.3m2)価24円余、用地坪価30銭となっている。
この時、松平様のお倉跡は原状変更されたのであった。
松平様のお倉がいずれの年代のものであるかは定かでないが、五味ヶ谷の支配が左記のように移っていることははっきりしている。
正保の頃(1644~1648) 松平伊豆守
慶安元年(1648) 松平伊豆守
寛文16年(1672) 松平伊豆守
元禄7年(1694) 松平美濃守
天保13年(1842) 松平大和守
領地として他の者が支配したこともあるが、長期にわたり松平様の支配下にあったことは理解される。