43 馬頭観音講

 大字五味ヶ谷を通る県道川越坂戸毛呂山線沿の字広田の一本松の根元に、古くから馬頭観音が祀られていた。今は、県道改修の折市道沿民家の裏に移されている。

 馬頭観音は、高さ3尺5寸(1m5cm)幅1尺5寸(45cm)の石仏で、正面上部に馬頭その下に菩薩の顔が中央と左右と3つ付いて中央の手は合掌、右手は古代の武器、左手には仏具を持っている。

    正面向って右上 奉建立馬頭観世音菩薩

         左上 宝暦六丙子二月吉日

         台座 願主 伊藤源兵衛 斉藤市右門 講中三十二人

と記されている。

 この菩薩は今より260余年前に建立されたもので、五味ヶ谷村を中心に極めて広い範囲にわたり馬頭観音講が出来ていたことを物語っている。

 『郡村誌』によると、五味ヶ谷は戸数41、人口男95人、女97人、計192人、馬9頭となっている。この時代における鶴ヶ島13ヶ村の馬飼養頭数は150頭で、宝暦年代において講員が32人にものぼるというのは、地方的にめずらしいことである。

 今から120余年前に建てられた、旧大家村四日市場諏訪台の馬頭観音は、大家村・鶴ヶ島村・高萩村・高麗川村・川角村の5ヶ村の人達で建立している。そこには25名の講中の名が見られる。これらは、地方として多い講中であるが、五味ヶ谷のものは更に大きい講中であり、極めて広範な地域の馬頭観音講であったことだろう。

 また、明治時代、字伊流(いりゅう)に競馬山があり競馬が行われたと伝えられる。馬頭観音講、競馬山と五味ヶ谷との結びつきは、江戸時代から明治にかけての当地の風土を物語っているともいえるだろう。